毎年、年末の時期近くになると、来年のNHK大河ドラマのことが話題になる。
大河ドラマのテーマ自身は、以前に決まっていることだが、放映される日が近づくと、関連した数多くの出版物が発行されることもある。
来年の大河ドラマ「光る君へ」の主人公は、世界的な古典文学として知られる『源氏物語』の作者である紫式部になる。
その生涯を追ったドラマということになるが、平安時代の華麗な衣装や王朝文化が背景になっているが、どのように表現されるかわからないが、興味深いものがある。
といっても、私は『源氏物語』を実は読みとおしたことがない。
考えてみると、不思議なことだが、何度か読もうと思って手に取った記憶はある。
古文の文体が長々と続くので、それだけでリタイアしてしまう面もあるが、どうもそれだけではなく、かつて学校の授業で読まされたときに、あまりいい記憶がなかったかららしい。
当時の古文の授業は、冒頭の文章を読み、その文法や意味を事細かに解釈しながら説明するというもので、中身よりも文法を中心としているために味気ない授業だった。
しかも、最初の方は、光源氏の母になる桐壺の更衣を帝が寵愛するが、周囲の嫉妬によって苦しみ、そして若死にするというようなプロローグだった。
教科書を開き、冒頭の「いずれのおほんときか……」といったような文章を何度目に入れたことだろうか、と思うほど繰り返しそこだけを読んだ。
そのあたりを読んでも、もちろん面白いはずはなく、このあたりに受験勉強としての古典の文法解釈はあっても、文学としての感動や味わいがない。
そのために、物語としての面白さを感じることがないために、『源氏物語』の文学鑑賞という基本的な喜びがなかった。
そのあたりにも、古典文学の学校教育に問題があるといっていいかもしれない。
その後、チャレンジしても、途中挫折したのは、やはりその時の記憶、味気ない昔の古文を読んでいるというイメージから逃れられなかったからだろう。
古文ではなく、現代語訳されたものならば、何とか読み通せるかもしれないと思ったこともある。
与謝野晶子訳、谷崎潤一郎訳なども試みてみたが、やはり途中で挫折してしまったことは記憶に新しい。
最初の印象をくつがえすのは、なかなか難しいということなのかもしれないが、学校の授業の弊害でもあるだろうと思う。
古典文学は、文法の授業ではなく、注釈や解釈は最小限にして、そのまま古文を読ませるということが必要ではないだろうか。
というのは、意味や解釈がわからなくても、ただ読むことを通じて、原文がもつ何ともいえないリズムや魅力が伝わってくる気がするからだ。
その点では、素読や朗読という方法を、古典の授業に改めて取り入れたらどうか、と思う。
『源氏物語』の作者・紫式部という名前は、本名ではないと指摘されている。
その名前の由来は、作中の人物である「紫の上」にあるとされている。
また、式部というのは、父為時の官位から来ているという説が有力だ。
本当の名前が伝わっていないのは、当時の女性のほとんどが名前が知られていないからである。
父の官位やその他で名をつけるしかなかったのだ。
他の例でも、紫式部のほか、清少納言や和泉式部などがある。
家系に認められていなかったという説や名前には呪術的な意味が込められていたので、本名を知られることを避けたという説もある。
たとえば、万葉集の最初にある雄略天皇の御製は、野に薬草を摘む娘へ求婚する歌だが、その呼びかけに、あなたの名を知らせなさい、という名前を問う部分がある。
それは名前は家族だけの秘密だったので、名前を教えることが求婚の受け入れを表していたからである。
いずれにしても、当時は女性はペンネームや通り名(水商売によく使われる源氏名などのようなもの)で、お互いに呼び合っていた。
この点から、当時の女性の地位が低かったと考える人もいるかもしれない。
その点については確かなことはわからないが、日本の母系制度というものが背景にある気がする。
さて、『源氏物語』には苦戦してしまったが、古典文学の中では、『徒然草』や『方丈記』などは割合、読みやすい印象があったことを覚えている。
特に、『徒然草』は、味気ない古典の授業であっても、そのシニカルでユーモアのある話に心が惹かれたことを思い出す。
とはいえ、『徒然草』は武士の時代に入っていく時期なので、その文体も簡潔でわかりやすくなったという事情もあるだろう。
文章というものは、時代の思想や風俗などを体現しているので、王朝時代はそのきらびやかな衣装を思わせるのびやかな、ある意味では間延びした文章である。
それに対して、鎌倉時代になると、武器で互いに戦う時代なので、文章も過度な虚飾を排した簡潔なものとなっていく。
短く、そして、刀剣で切り込むような直截的な文体となる。
『徒然草』には、そうした刀や槍、鉈やのこぎりなどの気配、音や金属の光が輝いている。
王朝時代のような優雅な時代ではなく、自然災害や戦争などが多発した過渡的な時代であったので、それに呼応するようなものとなるのである。
そう書くと、短い文章といえば、清少納言の『枕草子』はどうかという人もいるかもしれない。
確かに、『枕草子』の冒頭は、「春は曙」といった断定的で、短い表現で始まっている。
その点では、平安時代の空気とは、イメージとして異質な感じもする。
だが、平安時代は貴族文化の華やかさとともに、その背景には今昔物語に表されている貧窮にあえいでいた庶民階級の悲惨な生活も進行していた。
今昔物語には、底辺の庶民、下級貴族、役人などの生々しい生活が描かれている。
また、鬼や悪霊などの祟りなども出てくる。
そのあたりに貴族社会と庶民の生活苦に満ちた世界との落差があるのだが、『枕草子』からはそうした二面性が背景から浮かんでくるのだ。
清少納言は才気と勝気で朝廷生活を送っていたが、またその生活の裏も知っていた気配がある。
『枕草子』を読むと、そうした庶民の生活感なども感じるから、ただ王朝文化を謳歌したものではないことが感じられる。
その点では、私自身はどちらかといえば、『源氏物語』よりも『枕草子』が好みかもしれない。
(フリーライター・福嶋由紀夫)