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私の経験した就職放浪記

 就職のことでは苦労した。

 といっても、留年を繰り返していたので、まともには就職できないだろうとは悲観的に考えていた。

 学校にはあまり行かず(大学紛争のロックアウトの影響もあった)、ただ毎日、寝たり起きたりし、腹がすけば、カネのあるときは近所の食堂に行き、なければインスタントラーメンを作って食べていた。

 夜はイヤホンで深夜放送を聞いたりしていた。

 そのラジオも、やがて質屋に入れて質流れで無くなってしまった。

 もともとマスコミ、特に出版社が就職希望であったが、大学を卒業するときには留年が重なっていたので、絶望的だった。

 私は引きこもり傾向があったが、性格的に一般の会社などとうてい勤められないと思っていたことがある。

 本が好きで、文芸関係の同人誌などに詩や短歌、小説などを投稿していたので、やはりマスコミでなければならないと思い込んでいたのだ。

 今から考えると、こんな人間が出版社でまともに仕事ができるのか、と反省するが、当時は入社すればなんとかなるという、根拠のない自信だけはあった。

 高校時代文芸倶楽部に所属していた友人も、大手出版社に入社したことを知り、その秘訣を聞いたことがある。

 彼はゼミの先生のコネだよとぶっちゃけていたが、それはあったとしても、高校時代、同人誌に発表した小説が文芸雑誌に転載された経験があり、実力も認められていたのだろうと思う。

 ゼミ活動にも熱心だった彼に比べて、大学時代、引きこもり、暇さえあればパチンコをし、そして、文庫本を毎日1冊ずつ買い求めては読みふけった私は、そんなコネも何もなかった。

 だが、就職するとすれば(それが可能性があればだが)、マスコミ関係がいいと思っていた。

 だからこそ、無謀であるけれど、出版社各社に履歴書を送り、試験を受けられるかどうかを試した。

 どこかには引っかかるだろうと出版社を何社か受けたがほとんど門前払いだった。

 1社だけ面接までにいったが、その社風は堅実で、私がイメージしていた自由で挑戦的なジャーナリストというイメージからかけ離れていた。

 法律関係の出版社で、面接のとき、担当者が自社の模範社員として定年まで、数時間の通勤をしてきた皆勤賞の人物を挙げていた。

 やや自堕落な生活をしていた私にとって、それはジャーナリストのイメージからは程遠いものだった。

 だから、なかば諦めていたが、それでも就職して自立しなければならない立場としては、奇跡的に受かれば、そうした堅実な会社員でもやっていこうという気持ちもないではなかった。

 だが、奇跡は起こらず、私はしばらくフリーターをし、そして、保険の外交員などをしていた。

 そんなとき、あるきっかけで業界新聞の求人があり、なんでもいいからマスコミに入りたいと思って応募した。

 業界紙には、もちろん、様々なものがあって、中にはいかがわしいものもあったが、さすがにそれは興味はあってもあとが恐ろしいので敬遠した。

 私が応募したのは、ギャンブル関係の情報紙、競馬や競輪ほどメジャーではないが、それにつぐオートレースの予想をする業界紙だった。

 競馬の予想ならば、テレビなどで漠然としているが、イメージが浮かんでくるが、オートバイのレースというと、皆目見当がつかない。

 だが、いつまでもフリーターを続けているわけにもいかず、何か仕事をしなければという思いから新聞の求人広告に応募したのだ。

 そこは山手線の駅でも郊外に近いところにあり、狭い敷地に立った細長いビルだった。

 あばら家か小さなマンションのようなイメージを抱いていた私には、驚くほどのビルだった。

 狭い階段を上っていき、面接は社長みずからして来て、私の履歴書を見て、「君は大卒なんだね。今、私は大卒の優秀な学生を求めているんだ」と語った。

 応募は割合あったようで、優秀なライター経験者もいたが、断ったという。

 なぜなら、大卒ではなかったから、と説明する。

 オートレースの世界は、これからは科学的に予想しなければだめだというのである。

 従来のカンに頼ったやり方では、いずれ限界がきて、時代遅れになってしまう。

 だから、その前にデータを集めて、それを集計し、科学的に分析して、どの番号のバイクが一着になるか計算する。

 それによって、かならずわが社のデータ分析が他の業界紙を制覇するようになるだろうと力説した。

 私は、そのアクの強い個性にやや圧倒されながら、翌日から業務に入ることになった。

 最初は試用期間として3か月ぐらい働き、その後は社員となってもらうということだったが、いったい何をすればいいのか、まったくこの時点ではわからなかった。

 人に取材をして記事を書くというのが、私の業界紙へのイメージだったが、そんな編集記者のような仕事ではなく、机に座った私に与えられたのは、これまでの数年分のオートレースの記録を載せた新聞だった。

 これからデータの数字を拾い、そこにバイクの機能の記録を書き、それを数年ごとにまとめて、どのようなバイクがいい成績を収めるかを予想する。

 それで、私は会社に行くと机の上に重なった新聞からデータを書き写す作業をするようになった。

 面白くもなんともない仕事で、これをやることに意味があるのかどうか、悩まされていた。

 編集室は、机が5、6個あり、そこに数人の編集記者らしい20代から30代の男女がそれぞれの作業をしていたことを覚えている。

 部屋は半分仕切られたような間取りで、窓口のような区切りから向こうは、印刷室で活字を拾う印刷工の人がいた。

 オートレースの予想をする新聞なので、オートレースがない時期は、それほどする仕事はない。

 なので、いつも編集室では雑談の花が咲いていた。

 そこにいる人は、様々な経験を経てきて、ここに流れ着いた人が多いようで、バクチの話や金儲けの話、レースでも儲けた話や損した話などが和やかな空気の中でかわされていた。

 こうしたギャンブルに携わる人々は、テレビなどのドラマの影響かもしれないが、性格破綻者などを思い浮かべていたが、そこにいた人々はごくふつうだった。

 気のいいおっちゃんのような人もいたが、実はレースを判定する元審判員だったそうで、ノミ行為か何かで失職した話を自慢するようにしていた。

 そんなふつうだけれど、どこかネジが外れたような人々の話を聞きながら、私はここにいると、自分がおかしくなりそうになって、自分から辞めることにした。

 会社から外に出たときに、空を見上げながら、駅の方に歩いて行ったときの寂しく悲しい思いを今でも、時々思い出すことがある。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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