私自身が年齢を重ねて高齢者になったせいだろうか。
身体の健康ということを意識するようになった。
というよりも、意識せざるを得ないほど、体調不良になったり、体の節々が痛んだり、思うように動かなかったり、少しのことで疲れやすくなったりと、現実的な異常が身体を支配している感じがする。
よく老人になると、何人か集まると、医者や薬、病気のことなどばかりの話題に終始するという話を見たり聞いたりしたが、実際自分がその年齢になると、そういう話題に食いついてしまうのである。
もっと別な未来に対するビジョンや国家の将来、世界情勢について議論をすべきなのだと思っていても、それらはテレビや新聞や雑誌、インターネットの情報以上のことは知らないし、要するに床屋談義以上の深い話をすることができないのだ。
そのことが分かっているので(もちろん、高齢者仲間はだいたい仲間や友人になるので、見えをはって高等な政治の話をする必要もないこともある)、だいたい今関心をもっていることに集中する。
それは老いも若きも関係ないといっていい。
若い世代ならば、老化による身体的不安よりも、恋愛や出世、金儲けなどに関心があるので、流行やおしゃれ、ファッションなどの話題になるし、そして、自分を大きく見せてマウントを取り、女性にもてたいための見栄を張る。
話題が国家のことや世界のことよりも、そうした自分の周辺のこと、現在思い煩ってることに終始するのは、その意味で当たり前だといっていいだろう。
だからというわけではないが、高齢者が世界国家のことよりも、自分の健康の問題、生活のことや年金のこと、お墓のことなどに傾いてしまうのは、自然にそうなってしまう、要するに一番気になっていることに集中するこということである。
逆に言えば、そうしたことにしか本当の意味で関心をもっていなかったので、年を重ねることで経験は深まったかもしれないが、視野や思索は身の丈の問題に縮んでしまう、世界が狭窄になってしまうのである。
その意味では、ことわざではないが、もっと若い時に柔軟な思考や生き方をするための経験「かわいい子には旅をさせよ」ではないが、志を広く強く抱いて、それにチャレンジする生き方をしなければならないといっていいのである。
社会に出て、会社だけの関係、仕事関係の人間関係しか作ってこなければ、それは会社を辞めて何の肩書もないただの人になったときに、まったく周囲に関係がある人がいないことに気づき、一種の老年性引きこもり状態になってしまうのである。
会社という後ろ盾がないと、何もできない人間になってしまうのである。
そうした孤立した人間が、人間の集まりである社会や国家という広がりや世界というものを観念でしかとらえられないのも仕方がないといっていい。
外国人と接して機会がほとんどない人(仕事関係ではあるかもしれない)が、人種と文化と宗教の違いがある世界の人々を自分と同じように理解するということは、観念の世界ではあっても、実際には不可能だろう。
それこそ健康な人が、病気の人のことを健康な自分と同じように理解することは難しいのと同じである。
だからこそ、身体も頑健で精神も柔軟な若い時に、世界を知ることは重要である。
多くの人と人間関係を結んでこそ、あるいは多くの職業を経験してこそ、他の人の気持ちが自分の経験という引き出しから理解できるようになる。
そういったことを考えれば、なぜ人間が日本では迷信として忌避されることが多い宗教というものに自然に惹かれ、そこに人生の指針や平和や協調といったものを見出そうとするかが理解できる。
人は、同じ体験や知見などを共有することで、互いの境遇の違いや人種の違いを超えて、相互理解をすることができるのである。
宗教は人種や国家を超えることができる精神的なつながりを与えてくれるものだからである。
ただし、宗教というものすべてがそうした性質をもっているわけではなく、高等宗教といわれるものは、基本的にそうしたグローバルな思想を有しているのである。
そんなことをつらつら考えるのも、人生の終着点というものに対する高齢者の自然の精神的成長というものかもしれない。
ちょっと話は変わるが、私はなぜ仏像というものが一種類ではなく、さまざまな仏像としてつくられているのか、疑問に感じたことがある。
悟りを開いたのならば、釈迦だけの仏像を作ればいいのに、なぜそのほかの権能をもった仏像、菩薩や羅漢や金剛力士像や脇侍と言われる眷属の仏像などの多様な信仰対象がつくられたのか。
もちろん、それぞれが偶発的につくられたのではないことは承知している。
それがつくられる動機や背景があることはわずかな知識ではあるけれど、知っていることがある。
とはいえ、多数の仏像全部を理解することは、仏教の真正な信徒として教義を学び、それぞれの権能と意味合いを教えてもらうしかない。
多様な仏像があるということは、まさに人間の救いというものが、多様な要素を持っていたので、それに特化した権能の仏像が要請されてつくられたのだろうと思う。
それはどんな種類の仏像が多いかによって、ある程度理解できる気がする。
宗教というと、神仏のもつご利益信仰という言葉が思い浮かんでくるのも、人間の悩みを解決するということは観念ではなく、人間に対して利益を与えることも救いということにつながっているからだろう。
宗教はもともと、観念的な救いではなく、現実的な悩みの解決を与えるものであった。
それは、当時の人々が患っていた貧困や病気からの救いと解放という作用を持っていなければ、救いをもたらすことにはならないからだ。
特に当時の人々が悩まされていたのは、病気の問題、健康の問題である。
医療が未発達だった時代は、川の水を飲んでも、動物の肉を食べても、その中に潜む病原菌などを知らなかったので、健康を損なって病気になりやすく死にやすかったことは言うまでもない。
幼児死亡率の高さ、平均寿命が短かったのは、そうした病気から治癒される方法がほとんどなかったからである。
それで、当時の人々は、病気を治すことを祈願し、そのための仏像を欲したといえるかもしれない。
仏像の中でも、人気の高いのは数多くつくられたことで知ることができる。
そして、私の狭い知見の中では、各地でよく見かける「薬師如来」仏像が人気が高いのは、まさに人々が病気からの癒し、治癒を願っていたからだろうと思う。
薬師如来信仰は、そうした人々の願いが何であったのかを如実に示している事例である。
健康で長生きすること、それが人々の願いだったのである。
そのことを考えれば、高齢になった老人たちが、病気の話や薬の話で盛り上がるのも、決して異常なことではなく、ごくふつうの当たり前のことであるかが理解できるのではないだろうか。
(フリーライター・福嶋由紀夫)