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引っ越しのことで考えること

 最近、知人友人の引っ越しをして郊外に移ったという話を聞くようになった。

 郊外は、自然が豊富で、朝は鳥の声で目覚め、散歩をすると、森林浴になって健康にもいいという。

 雑然として混雑した場所がなく、ゆっくり散歩し、公園のベンチで本を読んだり、瞑想しながら休憩もできる。

 このところは暑すぎるが、春や秋などの涼しい気候になると、自然の風や空の雲を見つめながら、人生について、今後の生き方について考えたりする。

 特に、木々の緑、秋の紅葉には、不思議なほど、生きていていることを実感する。

 そんなゆったりした時間、充実した時間を楽しめるとも語る。

 いいことずくめのようだが、もちろん、マイナスもある。

 第一に買い物をするスーパーや病院などがなく、帰り道はバスも終了していて、ときどき闇が深いので怖い思いをするとも。

 また、駅から遠く、都市部に住んでいたときのように、帰宅時間を気にしなければならないらしい。

 いいこともあれば、それと同じようなマイナス要因もあるのである。

 ただ、話を聞いているとうらやましくなるのは、それだけ現在の生活環境に満足していないうことかもしれない。

 都会の道路の傍のアパートに住み、朝も昼も車の往来や人々の話し声や時には急スピードで走り抜ける救急車や消防車、パトカーなどのサイレンの音に悩まされえている生活だと、そんな友人の話を聞くと、旅心ではないが、郊外へ引っ越ししたくなってしまう。

 ただ、そうは思っても、なかなか実行に移せないのは、手元不如意なこともあるが、人間関係を新たに築くことに自信がないからである。

 引っ越しをするということは、物理的に居住環境を変えるということだけではない。

 それまでの周囲と築いていた人間関係、環境との融和などの眼に見えない関係性を清算して、新しい環境からスタートしなければならないということである。

 引っ越し先が便利で快適であっても、そうした精神的なアイデンティティは、一度ゼロになってしまうのである。

 新しい環境に心身の不適応になってしまう可能性があるといってもいい。

 よく田舎の不便な過疎化した村や里に住んでいる年老いた親の心配をして、ライフラインが充実し子供として親の世話ができる都会に引っ越して来るように親を説得しようとしているケースを聞くことがある。

 確かに子供にとっては、いつ何が起こってもおかしくはない過疎の地域に、親を住まわせていることは不安で仕方がないだろう。

 そして、なぜ不便で危険で、倒れたら病院にも行けず、そのまま孤独死してしまうかもしれないところに親を放置していることは親不孝ではないかと考える。

 それで、都会での同居を勧めるのだが、基本的に親の多くは長年住み慣れた土地から離れることを拒否することが多い。

 子供にとって不思議ではない親の対応で、理屈もなにもなく、子供のように拒否する親を理解することができない。

 高齢になって頑固になってしまったとか、認知症気味になって、新しいことへの無意識の拒否感があると思ったりして説得に努める。

 もちろん、自分の子供も生活をするのは問題がないが、子供の嫁と生活することは嫁姑の複雑な関係もあっていやだと思っていることもあるだろう。

 だが、やはり根本的なのは、人間も自然の摂理と共通のものがあって、若い時には、根無し草のようなものだから、各地を移動しながら居住地を変えることには適応できる柔軟性がある。

 ところが、高齢になると、移動がむずかしくなる。

それは老木が大地に深く根を伸ばして、そこに確固とした基盤をつくり、成長し、花が咲き、実を結ぶサイクルを過ごしているため、移動するということは慣れ親しんだ土地の土壌から切り離され、適応できないようになってしまうからである。

 人間もそれと同じで、青少年や壮年時代は、まだ何か新しい未来があり、何事を成し遂げるための時間がまだ十分に残っていると考える余裕がある。

 だが、年を取ると、樹木のような土壌との結びつきほどではないが、その土地や風土、精神文化、風習、人間関係などの絆が見えないけれど深く深層心理で土壌となっているのである。

 高齢者となって、新しい土地や環境に移るということは、これらの精神的な豊かな土壌から切り離されてしまうということである。

 しかも、人間は家族だけで生きているのではない。

 住んでいる場所の人々の人間関係や社会関係、民族や国家との見えない関係でつながっているのである。

 故郷を離れて子供の居住地域に移るということは、これらのすべてを捨てることになるのだ。

 精神的に不安になってしまうことになるのはいうまでもない。

 よく子供に引きとられた親が、故郷に住んでいたときとは違って、元気が無くなったり、認知症が進んだりするケースがあるのは、こうした親の背景にある総体的な要素を切り離してしまうからである。

 ふるさとというのは、母親の胎内のようなものである。

 そこで空気を吸い、土地からとれる野菜を食べ、家族と地域住民との交流によって、見えない絆が精神的な血肉となって身体の中に息づいている。

 そのふるさとという母の胎内から旅立つには、高齢者にはもう一度生まれかわるという体験になる。

 私が郊外への引っ越しにあこがれながら、いつもためらってしまうのは、以上のような理由からである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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