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詩人は世界の中心で愛を叫ぶ

 詩人とは何だろうとよく考える。

 長く楽しめる小説のようなエンターテインメントではなく、文字の総量もそれほど長くはない。

 しかも、人の耳を通して心を共振させ、興奮させる音楽のような共同的な空間を出現させるわけではない。

 感覚的な喜びを与えてくれるものでもない。

 詩は、現在、印刷された本として流通しているので、誰もが同時に読めるものでもなく、部屋で本を読み楽しんだり悲しんだりするものである。

 詩人はまた小説を書く作家のように、著作料、印税で生活はできない。

 その意味では、詩人は詩を詠むことで商売として稼いだり、自分の生活の糧を得るためになることはできない。

 これが俳人や歌人ならば、師匠となって弟子を養成し、指導のために各地のパトロンを訪ねて援助を受けながら生活することはできる。

 ただ、それはもちろん、一握りのケースである。

 だったら、詩人とは何者なのか。

 こう尋ねるとすれば、詩人は一種の予言者であり、巫女やシャーマンのような宗教者といっていいかもしれない。

 詩人はすなわち民族の魂を抱いて、どうしても天(神)からのメッセージを受けて、本人が自覚しているかどうかは別として、それを詩として発表する。

 私は神楽や声明なども、この神のメッセージを受けて発する詩だと考えている。

 かつて私は韓国のムーダンの儀式的な踊りと歌を見たことがあるが、これもまた神からのメッセージを受けるための儀式、詩のようなものではないか、と感じたことがある。

 巫女が神のメッセージを下すとき、楽器を使って歌のように語るのはそのような詩を秘めているからではないか。

 詩人が予言者であるというのは、詩の中にそうした民族の魂をゆさぶる天からのメッセージがあるからである。

 その意味でも、旧約聖書には歴史的な記録とともに、立法や政治や司法、そして、神のメッセージが潜んでいる。

 なぜ旧約聖書の中に、「詩篇」があるのか。

 そうした詩が預言書とは別な魂をゆさぶる神から与えられた感情のメッセージだからではないか。

 旧約聖書には、神からのメッセージを受ける予言者や指導者の話がよく出て来る。

たとえば、エジプトからイスラエルの民を導き、紅海を分ける奇跡をおこなったモーセという指導者がいる。

モーセは砂漠をさまよい、そしてシナイ山で神からのメッセージを受ける。

それが岩板に刻まれた神の言葉、十戒である。

十戒を読むと、警告であり法であり、イスラエルの民が守らなければならない厳しい戒めである。

人間の守るべき戒め、それはまた厳しい罰でもある。

モーセに十戒を与えた旧約の神は、それだけでは人間の意識を縛る禁忌となって委縮してしまうので、喜怒哀楽を込めた詩によって、本来のあるべき人間の姿を謳歌する詩をメッセージとして送ったのではないか。

 詩には、そうした未来を見据えたような視点が潜み、心をゆさぶり、民衆の心を神のもとへ導いていく。

 中国では詩が重んじられて、孔子が詩集である「詩経」を編纂したのも、詩が人間の生活感情の基本であり、そこに神(天)の意思が反映されているとみたからだろう。

 また中国では、古代からの官僚の登用試験には、必ず詩の課題が出され、それが優れていなければ合格しなかった。

 現代から考えると、官僚試験に詩が入っているのは不思議に思えるのだが、それほど詩を詠むことが政治家の基本的な能力に必要なことだったからである。

 そういえば、中国では詩、小説、劇などを通じて、その当時の政治を批判することがあって、それが為政者の逆鱗にふれて地方へ飛ばされた事例がある。

 詩は民衆の心を動かす力となるために、無力な言葉ではなく、政治的なパワーをもつ神からのメッセージでもあったのである。

 古代では巫女と詩人は一体化していて、神からのインスピレーションを受けて、それが託宣となったり、予言になったり、歌や芸術となったりする。

 詩人は個人としてみれば無力であるが、その言葉は羽根がはえた鳥のように飛び回り、人々の心に火を点けて燃え上がらせる。

 その点では、詩人は政治家でもある。

 政治という言葉は、祭りごとをして民を治めるといった意味がある。

 古代においては、神のメッセージをいかに受けて、それを民衆とともに共有して、五穀豊穣と平和な世界を謳歌するというのが政治であったのである。

 だから、本来は政治と宗教の分離はあり得ない。

 その意味では、詩人は教義を説かない宗教家と言えるかもしれない。

 神道の祝詞も詩的な部分があることも注意したい。

 良い政治家とは、良い祭司長(宗教家)であり、それを支えるのが巫女や予言者の役割をする本来の詩人なのである。

 しかし、現代では詩はどのような状況にあるのだろうか。

 現代の詩人は、予言者だろうか。

 そういう詩があるのも間違いないが、多くの詩人は自分の世界、個人主義的な空間で、言葉の遊びをしている面があるような気がする。

 詩が民衆から離れて、個人の所有物のようになってしまってはいないだろうか。

 今こそ、神を求め、民衆の魂をゆさぶる詩、その出現が待ち望まれるのである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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