かつて集中的に中国の唐時代の詩人の詩を読んでいた時期がある。
岩波文庫版の『唐詩選』の上中下の3巻本だったので、カバンに入れて持ち歩き、少しひまな時間があると、適当にページを開いて読んでいた。
適当な読み方だったので、到底読み切ったとは言えないが、気に入った漢詩は繰り返して読んだので、少数ではあるけれど暗唱できるほどだった。
もともと詩や短歌、俳句の本は、最初のページから時系列に読むと途中から飽きてきてしまい、頓挫することが多かったのである。
唐の時代の詩人には、李白や杜甫などの有名人がいるが、それよりも小粒ながら、自然や庶民感情を詠んだものに惹かれた。
なぜ唐の詩人の詩を読むようになったのかといえば、やはり学校の教科書で学んだ影響が大きい。
李白も杜甫も名詩が載っていたし、そのほか杜牧や「春眠暁を覚えず」で知られる孟浩然も教科書で知った詩人である。
だが、李白は気宇壮大であるけれど、どこか現実離れしたところがあり、杜甫もあまりに正統主義的な窮屈さを感じて、それほど好きになれなかったことを覚えている。
中国の詩は以来、発展していくが、唐の詩人たちのような親しみを感じることはなくなった。
あまり日本語に翻訳されなかったという事情もあるかもしれない。
近現代になると、中国の詩人たちは数多く出現したと思うが、フォローしていなかったので、あまり知らない。
そうした事情の中で、このほど中国現代詩人たちが紹介された本を知って、俄然興味を覚えた。
というのは、中国の現代詩人と銘打っているものの、その詩人たちは漢族ではなく、中国東北部地方、延辺などに住む朝鮮族出身の詩人だけに焦点を当てた詩集だからである。
その本は「中国詩人文庫」シリーズとして、全5冊出版されている。
5巻の内訳は、1巻「韓永男詩集」、2巻「全京業詩集」、3巻「金学泉詩集」、4巻「金昌永詩集」、5巻「趙光明詩集」となっている。
出版元は土曜美術社出版販売となっていて、定価は各巻1980円ほどである。
これまで、中国現代詩人の本は寡聞にしてどのくらい翻訳出版されているかは知らないが、朝鮮族だけに焦点を当てたものはこのシリーズが初めてではないだろうか。
いずれにしても、興味深い刊行であり、意義深いものがある。
この中国東北部地方ゆかりの詩人といえば、日本でも有名なのが尹東柱である。
日本留学で孤独な生活の末に拷問死をした詩人であるが、清冽な民族の魂を歌い上げた尹東柱の詩は、今でも読むものの心を打つ。
そして、その足跡をたどるように翻訳刊行された中国朝鮮族の詩人たちの詩集は、何を語り何を訴えているのだろうか。
私の本棚には、この5人の詩人たちの詩集が並んでいるが、どのように読んでいくのか、少しばかり悩んでいたが、今回は第1巻から読んでみようと、「韓永男詩集」を手に取ってみた。
表紙には、韓永男の詩の一部が掲載されている。
夢で故郷に帰ってきたよ
故郷は夢の中でも
子供の頃の思い出そのまま
野に果てしなく広がる田んぼからは
毎晩カエルの合唱が聞こえて
山間の小川は
生い茂った草で隠れ 音だけが聞こえる
現代詩人の詩は都会生活で、パソコンを使い、便利な生活をしているので、どうしても故郷の土臭さから切り離されて観念的になりやすい。
自己の心の世界、そして抽象的な言葉の構築によって迷路のような表現世界を生み出している傾向がある。
それはまるで、絵画の印象派からシュルレアリスムに移り、ピカソのような現代を象徴する抽象画のようになってしまった経路と重なるといっていい。
その流れは、近代化による個人主義や電脳生活によるもので、ある意味では必然的な芸術のプロセスであるが、それは個人の世界の限界から超えることができずに閉塞的な表現世界になってしまっているのである。
現代芸術家は、自分の作品は理解できる人だけがいればいい、といった閉鎖的な姿勢が感じられる。
こうした現代詩の中で、朝鮮族という独特の出自をもっている韓永男は、都会に生活する現代人だが、その魂には自分の生まれ故郷の田舎、父母の住むところに心のアイデンティティを抱き、その詩は故郷を慕いつつ、しかし、何かもどかしい状況の中で、もがき呻いているという精神世界が浮かびあがって来る。
なぜなら、この詩集の巻頭に配置された詩のタイトルは、「故郷は僕が小便をかけても咎めなかった」という、ややショッキングなものとなっているからだ。
故郷から離れてしまった自分とそれでも受け入れてくれる故郷の山河、そこにはアンビバレントな感傷と憤りのようなものが感じられる。
この韓永男の詩を通して、故郷の中国東北部地方への思いが滲み出ているといっていいだろう。
と同時に、朝鮮族の魂の故郷である朝鮮半島への思いが、その深層心理の中でうごめいているような気がする。
朝鮮半島の南北平和統一の願いが、もしかしたら、そこに反響しているかもしれない。
(フリーライター・福嶋由紀夫)