
私の世代は、音楽ではジャズやロックなどのファンが多い気がしている。
歌謡曲でも、演歌ではなく、グループサウンズやシンガーソングライターの歌手の曲全盛だった。
今そんな昔の曲を聞くと、懐メロのように耳にふれてきて、大学時代の光景、付近の喫茶店で過ごした日々を思い出す。
もっぱら聞く専門だったので、ギターやピアノを弾ける人にはあこがれたけれど、根気が続かないせいか、それほど執着しなかった。
むしろ音楽関係では、クラシックを割合よく聞いていた気がする。
フリーライターをするようになって、ときどき、聞いた音楽を素人なりに感じたことをエッセー風に書いたりしたこともあり、そのピアニストから連絡をもらったこともある。
ただ、やはりオタクになるほど聞き込みをしないかぎり、どうしても印象批評に終わり、専門の音楽評論家のような専門用語、楽譜や弾き方についての技術的な批評はできなかった。
それで、よほどでないかぎり、そうした音楽批評的な仕事をしないようにしていた。
書こうと思えば書けただろうが、それこそ炎上してしまうか、バカにされるか、無視されるかになっていただろう。
餅は餅屋にまかせるにかぎる。
とはいえ、イベント関係の取材があったりして、どうしても音楽関係のことを書かなければならないこともある。
たとえば、私の記事のスクラップ帖に張り付けてあるずいぶん昔の記事。
わずか5センチ四方ぐらいの新聞記事の切り抜きを見ていると、当時のことを今でも鮮やかに思い出すことができる。
それは音楽の内容ではなく、そのときの演奏者の顔の表情だったり、パフォーマンスだったりするのである。
それはジャズピアニスト・山下洋輔と韓国の民俗楽器のグループのサムルノリのコラボレーションの演奏会だった。
よく知られているように、山下洋輔はジャズ界では知らないほどない存在がないほどの知名度が高いピアニスト。
対して、サムルノリは、このとき日本に来た最初のころだったので、まったく日本人で知っている人が少なかったグループだった。
のちに、サムルノリが世界的なアーチストとして認知されるとは思わなかったほどの時代だった。
私が関心を抱いたのは、当時、韓国の民俗音楽に心惹かれるものがあったので、韓国舞踊や映画、演劇などを覗き見るような時代だったからである。
日本の民俗的な音楽だと、盆踊りやその他に使われる太鼓や伝統的楽器、尺八や三味線、琴が奏でるもので、それぞれ自分のもつ音域を守り、他の楽器と重複しないように調和的、ハーモニーを生み出すものだった。
だが、韓国の民俗音楽、サムルノリは音楽同士が調和するのではなく、それぞれの個性を発揮し、自己主張しながらうるさい騒音のようなレベルから、いつのまにか共鳴し、かつ重奏のように収まっていく。
そんな不調和の調和、自分で書いていても矛盾を感じるのだが、そのような音楽性を持っている気がする。
なぜあのうるさい音楽が究極には均衡をたもち、騒乱や雑音ではなく、一種の不思議な空間を作り出し、音楽性を生み出すのだろうか。
農楽やその他の舞踊を見たり聞いたりするうちに、そのような個性と全体性が互いに相手を飲み込むのではなく、共振、共鳴、共生していくのか、不思議でならなかった。
そのような疑問があったからこそ、ジャズとサムルノリのコラボの演奏会に出かけたのだった。
この西洋の音楽とアジアの音楽とのコラボは果たしてうまくいくのだろうか、そんな好奇心と不安もあった。
結果的に言うと、私の印象でいうと、このコラボは調和という意味でいうならば、失敗だったと思った。
水と油のようにまざることもなく、分離したまま最後まで終始していたといっていい。
ジャズのパートとサムルノリのパート、音楽的にはソロと寄りそうような合奏の部分が融合はせずに分離したままだったのだ。
もちろん、こそそうした異質なモノ同士の合奏が、化学反応のように、異様な音楽空間を生み出していると言えないこともない。
音楽会というイベントを通じて、それとは別個の思想的な、あるいはその不調和自身に新たな芸術的可能性、ポストモダン的な芸術運動と捉えることも可能である。
面白い試み、ハプニングのような観客を驚かせるインスピレーション的なイメージを喚起させるという前衛的な芸術。
そうした試みの発想の面白さはあったけれど、古い感覚の持ち主であった私としては、やはり成功しているとはいいがたいと思ったのである。
さて、このことを書くべきか書かざるべきか、悩んだけれど、書くということは自分自身の正直な感性や思いを表すことなので、私は次のようなことを書いた記憶がある。
要するに、試みとしては面白いがまったく二つの音楽性は調和しておらず、交じり合っておらず、別個の世界をそれぞれ演奏しただけだった。
その証拠に、熟練のジャズピアニストの山下洋輔が演奏中、表情が硬いままで、途方に暮れた子供のようだったと書いた。
この記事はほとんど注目されなかったが、ただ一部の人が読んでくれていたようで、その内容がアメリカの在日同胞向けの地方新聞(今は廃刊)に転載された。
最初の方にふれた新聞の切り抜きとはその記事であることは言うまでもない。
(フリーライター・福嶋由紀夫)