黄七福自叙伝08
「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」
第1章 祖国解放までのこと
日本へ行きたいと考えたころ
私の通ったのは山奥の小学校だったが、一年から六年まで成績はよかった。卒業式には「皇太子殿下表彰」を受賞した。
この賞は、成績が一番で、級長をしたものに与えられる賞だった。分厚い紙の表彰状で、今も残っている。
山奥の田舎の小学校でも、先生らは折にふれて、朝鮮人に対する差別発言を口にした。時には、朝鮮人ということで馬鹿にされ、泣いたこともあった。
上の学校を目指して、勉強する毎日だったが、山奥の村には上の学校がなかった。勉強するんだったら、日本がいいのではないかという勧めもあって、日本へ行く希望が膨らんだ。
が、日本へは簡単に渡航できなかった。
日本へ行くのは釜山港からだった。幸い、釜山港の近くにコモ(叔母)がいたから、そこへ遊びにいき、日本へ行くチャンスを探した。コモは小さな雑貨店をして、そこへ日本の船員らがしばしば顔を見せた。
ある日、コモが三井商船かどこかの機関長を紹介してくれた。
「日本へ行きたい」と相談し、成績表を見せると、「うーん、この成績だったら、日本の商船学校へ行って、一等機関士になれるな。そうだな、無線士もいいかな、広島の逓信講習所へ入 ったらどうか。そこに、わしの知り合いがおるから、紹介してやろう」と言ってくれた。
で、入学案内を取り寄せ、手続きを済ませて、広島逓信講習所に入学することになった。親は、日本へ旅立つ子供のために、五十円を渡してくれた。
そして、「困ったことが起きたら、訪ねてみろ」と、同郷の村人の住所を教えてくれた。広島や京都などの住所だった。
私は、関釜連絡船に乗って、広島へきた。逓信講習所は宇品町にあった。卒業すると、判任官待遇になれるということだった。修業期間は二年だった。
判任官というは、明治憲法下の下級官吏であった。天皇の委任という形式を取って各行政官庁が任命したもので、上の高等官は勅任官とか奏任官と呼ばれた。
しかし、その授業内容は肌に合わなかった。日本にきて勉強して、政治家になることが夢だったから、大政治家にはなれなくても、せめて道知事ぐらいはなりたいという気持があった。
京都での夜学のころ
一カ月間ほどして、京都に出ることを決心した。親に教えられていた村の人を頼って、その家に身を寄せた。五十円はそのまま残っていた。
しばらくして、下宿し、自炊生活を始めた。職場は京都左京区の棚橋友禅で、友禅の色合わせが仕事だった。
その工場で色合わせをしていたのは朝鮮人だったが、やめてしまったため、私がその後を継ぐという形になった。
そして、夜学へ通うようにした。立命館大学専門学部の法律科だった。しかし、仕事の関係で、まともに通えなかった。
そのころ、十七、八歳、一九四〇年前後の頃だった。配給は米三合五勺だったが、食べ盛りの若い体には、一回分にしかならなかった。
「ハラがへってはイクサができぬ」という状態で、毎日が空腹で勉強する気力も出てこなかった。
習字用の半紙を買って、夜学へ行き、ちょっとしたヘマでインクをこぼしてしまい、半紙を汚してしまった。
半紙もたやすく手に入らない時代だったから、汚れても使えそうなやつをカバンにしまって持っていった。
ある日、カバンの中を調べられた。チョロチョロと墨のついた半紙を見つけて、
「これはどういうことか。何かの暗号か」
「友達はどこにいるか」
などと訊問された。
中学校以上の朝鮮人は必ず、特高に目をつけられていた。
族譜を見ると、黄姓は中国から来たということがわかり、中国人になんとなく親近感を感じたが、日本にも黄姓に関係した土地や人間がいないかと探したが、そのようなものはなかった。
あるのは、朝鮮人に対する蔑視だった。そうした蔑視に遭遇すると、日本人に見られるようと努力した反面、祖国の独立を願う気持が強くなった。