黄七福自叙伝11
「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」
第1章 祖国解放までのこと
真の指導者にあこがれたこと
日本の植民地となっていた祖国は、圧政に呻吟していた。二・二六事件や五・一五事件に祖国独立の闘い方があるような気がしたし、第一次世界大戦でボロボロになったドイツが、ヒトラーを指導者にして華々しく躍進していた。
第一次大戦でたたきのめされたドイツは、戦争賠償で、国民が働いても働いても追いつかない状態に陥った。陸軍伍長のヒトラーが、ドイツ労働者党の党首となって頭角を現し、ヴェルサイユ体制の打破をアジテーターとして国民に訴え、国民がみな共鳴するようになった。
敗戦から立ちあがるそのドイツの姿も、一つの独立の姿だと思い、祖国の独立を重ね合わせた。
そして、華々しく活動するヒトラーのなかに祖国独立の指導者像があるように感じた。
簡単に説明すると、ヒンデンブルク大統領は一九三三年一月三十日、ヒトラーを首相に任命した。
一九三四年八月二日、ヒンデンブルク大統領が死去、八月十九日の国民投票によってヒトラーは国家元首の大統領職と政府首班の首相職を統合し、総統兼首相職に就いた。
国民は彼を総統と呼んだ。
その後は深刻だったドイツ経済の振興に取り組み、再軍備による軍需産業や自動車産業(フ ォルクスワーゲン)の育成、また公共事業としてアウトバーンの建設を行い、この一大事業で街中を埋め尽くしていた失業者はほとんどいなくなったと言われている。
一九三六年には国の威信をかけたベルリンオリンピック大会を開催し成功を収めた。
一方では、スペイン内戦への介入するなどして、着々とナチズムに基づくドイツを作り上げていった。
祖国にも、ヒトラーのような指導者が登場したら、独立できるのではないか、というイメージが私の頭の中に膨らんだ。
その当時は、ユダヤ人を虐殺したということなどは戦争が終わるまで知らなかった。
私の心の中に、そうした祖国を独立に導く真の指導者を希(こいねが)う思いが高揚して、二・二六事件や五・一五事件に関係する本、ヒトラーの『マイン・カンフ(Mein Kampf´ 我が闘争)』などが愛読書になった。
第二次世界大戦
ヒトラーのドイツは、一九三九年九月一日にポーランドを侵攻し、九月三日に英・仏へ宣戦布告して、第二次世界大戦が始った。
開戦から二年ほどでフランス全土を占領し、一九四一年六月二十二日にモスクワまであとわずかのところまでに迫る勢いだっだ。
しかし、開戦三年目に入ると、東西両戦線やアフリカ戦線で劣勢となり、枢軸国の一員であったイタリア・パドリオ政権が降伏して苦境に陥った。
一九四四年七月二十日には、シュタウフェンベルク陸軍大佐によるヒトラー暗殺未遂事件が起こり、カナリス海軍大将(国防軍情報部長)ら四千人が死刑になった。
国民的英雄であったロンメル陸軍元帥も関与の疑惑を持たれ、自殺が強要された。
一九四五年三月、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ国民は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、全て破壊するよう「焦土命令(ネロ指令)」を発したが、軍需相のシュペーアは聞き入れず回避された。
同年四月二十九日に、ヒトラーはベルリンの地下壕でエヴァ・ブラウンと結婚式を挙げ、 その翌日、総統官邸地下壕において、愛犬ブロンディを自ら毒殺した後、妻エヴァ・ブラウンと共に自殺した。
ナチス指導者は、ニュルンベルク裁判(一九四六年)で戦争犯罪には問われた。ロンドンに逃亡したルドルフ・ヘスは、無罪を主張し、「ヒトラーはドイツであり、ドイツはヒトラーである。ハイル・ヒトラー」と述べ、変わらぬ忠誠を示した。
結果は、終身刑で、米英仏ソ四国共同管理下のシュパンダウ刑務所で服役し、一九八七年、九十三歳で謎の死を遂げた。