黄七福自叙伝16
「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」
第1章 祖国解放までのこと
突撃的革命家・朴烈
「朴烈君は義烈団員ではない。義烈団とは全然別個な、独立独歩の朝鮮独立運動者として、祖国朝鮮を強奪した日本国家に革命を惹起せしめ、侵略日本の軍国主義を打倒して平和日本の建国を成就させるとともに、祖国朝鮮独立の平和建国を達成しようといふ突撃的革命家である」と布施辰治は記しているが、その朝鮮革命宣言の中からも少しばかり抜粋してみよう。
◇【義烈団の朝鮮革命宣言】強盗日本は俺たちの祖国朝鮮の国号を抹殺し、政権を掠奪し、我らの生存的必要條件を剥奪した。俺たちの祖国朝鮮の経済的生命たる山林、沃野、鉄道、鉱山、漁業ないし工業原料の原始生産から加工製造にいたるまでの仕事場を悉く略奪して、一切の生産機関を喪失させた。それは刀でもって斬り、鉞をもって断ち割くやうなやり方であった。朝鮮民族の負担として搾取し、最後の血の一滴までも吸収するやうな政治を強制してゐるのだ。
◇【義烈団の朝鮮革命宣言】俺たちは、食ふべきものも食はずに餓死するやうに強盗日本の奴らに扱はれてゐるからだ。しかも牛馬の生活さへ許されないといふ実情なのだ。なぜならば、日本の移民が年々高度の率をもって増加し、彼らの履いて来る下駄や足駄によって踏み殺される俺たち朝鮮の民族は、だんだん自ら履き慣れた靴をもって踏み歩く土地もなくなってしまうやうな有様だからだ。そのために山の奥、野の果、西間島に、北間島に、シベリでの荒野に追いまくられたり、逃げ出したりして、餓鬼となり流鬼となる。俺たち朝鮮民族の姿のなんと隣れなことかを自ら顧みて、涙なきを得ないではないか。
◇【義烈団の朝鮮革命宣言】 強盗日本は、憲兵政治、警察政治を励行して俺たち朝鮮民族の行動を監視し、一瞬一分の自由も許さないのだ。言論、集合、結社の自由は一切奪ひつくされてゐるのだ。苦しいからといって苦しいともいへず、泣きたくとも泣くことができず、憤りや怨みや呪ひの言葉をがなり立てることもできない唖者の痛恨を、心の中に泣いてゐるのだ、忍び泣きに泣かしめられてゐるのだ。幸福と自由の世界にはもう手が届かない盲人同様の有様で、耳さへ祖国朝鮮の言葉を聞くことが禁じられ、口さへ祖国朝鮮の言葉を話すことを封殺され、子供たちは日文を国文とする奴隷養成所の学校に収容され、時に、朝鮮歴史を読ませられる場合があると、朝鮮の国祖を須佐之男命の兄弟だと偽り、三韓時代以前の韓国以南は、元日本の領地であったと称する、日本人の勝手につくった嘘の歴史を読ませるのだ。新聞、または雑誌では日本の強盗政治を賛美させて、俺たち朝鮮民族を奴隷とすることのみ書いてゐるのだ。
◇【義烈団の朝鮮革命宣言】強盗日本が俺たち朝鮮民族の生命を塵芥よりも軽く視、乙己以後十三道に義兵起るや、各地方において日本軍隊の恣いままにした暴行に、枚挙に遑がない。最近三月一日独立運動以後、木原、宣川、国内各地より北間島、西間島、露領沿海州、各地にわたって俺たち朝鮮民族を屠戮し、村落を焼払い、財産を掠奪し、婦女を汚辱し、首を斬り、腸を抉り、または、生きたままを埋めたり、焼殺したり、体を二つ三つに切り離して嬲り殺しにしたり、婦女の生殖器を破裂させたり、できるかぎり残酷なことをして、見てゐる者に恐怖と戦慄を與へ、強盗日本に抵抗する者はかくのごとしといふ恐怖政治を恣いままにしてゐるのだ。
◇【義烈団の朝鮮革命宣言】汝ら強盗日本の殺戮政治、異族統治のやり方は、これを政治といふことのできない民族の屠殺だ。だがしかし、俺たち朝鮮民族はそれでもまだ生きてゐるのだ。生きてゐるかぎりの生命はあるのだ。生命があるかぎりの反抗は続けるのだ。反抗を続けるためには、日本に革命を起させる暴力的な突撃でもって邁進することが最も捷径として、その暴力的な突撃を強盗日本に宣言する。と同時に、俺たちの宣言を邪魔する奴らに対してもまた暴力的突撃を宣言する。
◇【義烈団の朝鮮革命宣言】朝鮮民族の内政独立について、または、参政権の獲得について、或ひは、自治権の要望について、運動してゐる者もあるが、それらはみな強盗日本の手先どもで俺たちの宣言を邪魔する奴らだ。彼ら内政独立運動者は、東洋平和、韓国独立保全などを担保とする條約を結んだところで、その條約が何の役に立つかを知らないのだ。條約の墨痕まだ乾かざるに、三千里の祖国朝鮮の国士を蚕食してしまった強盗日本の、歴史的罪悪を忘れてゐるのだ。
◇【義烈団の朝鮮革命宣言】朝鮮民族の生命財産、自由の保護、幸福の増進等が幾度声明されようと、宣言されようと、そんなことは口先ばかりの御念佛で、彼らの必要とあれば時を移さずこれを反古にし、俺たち朝鮮民族三千万の生命を地獄に突き落すことを、何とも思はないことは、三月一日の運動以後、強盗日本が俺たち朝鮮民族にいかなる弾圧の手を差伸べてゐるかを考へてみればわかるはずだ。尤も狡猾老獪な強盗日本のやり方は、俺たちの独立運動を緩和するため宋秉唆、閔元植ら一味の売国奴を操縦して、さういふ議論を唱へしめてゐるのだ。だから、これらの売国奴に附和する者は、盲人に非ざれば奸賊である。強盗日本が果して、寛大なる度量をもつて俺たちの要求を許諾するものと思ったら大変な間違いである。
少し引用が長くなったかも知れないが、朴烈は一九四五年十月に出獄した。
徹底した反共思想の持ち主であったことから、在日朝鮮人連盟(朝連)への参加を拒み、在日本朝鮮居留民団(民団)を結成し、初代団長として一九四九年二月まで務めた。
その後、韓国に帰国したが、朝鮮戦争のドサクサに北朝鮮へ拉致され、南北平和統一委員会副委員長に推戴されたが、粛清されたと見られている。
一九七四年一月十九日、読売新聞が朴烈の死を報じている。その記事は前掲の布施辰治の著書に収載されている。
朝鮮独立の闘士朴烈氏死去――十八日朝の平壌放送は、朴烈氏が十七日午前一時死去したと発表した。七十七歳。朴氏は慶尚北道出身、日大在学中の一九二三年、いわゆる「朴烈事件」 で投獄された。無期懲役で秋田刑務所に服役中終戦となり出獄、在日大韓居留民団団長などを経て、四九年五月帰国。一九五〇年六月二十五日朝鮮戦争ぼっ発の際北側に連行され、その後 「南北平和統一推進協会」の会長となっていた。(新亜)
朴烈事件=大正十二年九月、関東大震災の際、大正天皇か皇太子(今上天皇)暗殺を計画していたとされ、在日朝鮮人十二人が検挙された事件で、首謀者が朴烈氏とされ、大正十五年大逆罪で死刑の判決、その後無期懲役に減刑、終戦とともに出獄した。作家・松本清張さんの話
「天皇制はなやかなりし時代に、朝鮮人が天皇暗殺を計画したということで、当時の日本人には大きなショックを与えた人だ。同志的な思想グループもなく、歴史的にはそれほど大きな意味はなかったと思うが、事件審理中に予審判事が朴烈氏をその恋人、金子文子という女性に会わせたことが明るみに出て大問題になるなど、社会史の上では大きなできことだった。私は資料の上でしか知らないが、朝鮮独立運動の闘士としてたいへん信念の強い人だったと思う」