黄七福自叙伝21
「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」
第1章 祖国解放までのこと
善隣友好関係
中世・近世の韓日関係は、倭寇(海賊)が跋扈し、韓半島や中国の沿岸を荒らし回り、また豊臣秀吉の朝鮮侵略もあったが、大勢は善隣友好が維持、増進されたといえよう。
日本が南北朝に分かれての内乱の時代にあっては、倭寇(海賊)が韓半島に頻繁に出没した。当初は慶尚道や全羅道から開京に租税米を運ぶ漕運船や港の倉庫を襲っていたが、次第に内陸にまで侵入し、「婦女、子どもも屠殺して残すなく、全羅、楊広、浜海の州郡は、粛然として一空」という記録などが残されている。
そうした無法ぶりが五十年間ほど続いた。
足利幕府三代将軍義満の時、南北朝の合一がなって内乱が収まり、一四〇四年に朝鮮王朝との間に交隣関係を結んだことによって、倭寇の活動舞台は韓半島沿岸から明や東南アジアに移っていった。時に韓半島は高麗時代から李朝時代に移っていた。
足利幕府が朝鮮に派遣した日本国王使節団は実に六十回余に及び、また西日本の有力大名であった大内氏(始祖は百済琳聖太子) や細川氏、斯波氏、対馬宗氏なども盛んに朝鮮と交易をした。
これに対して李王朝からの朝鮮通信使は五回派遣され、日本に対して富山浦(釜山)、塩浦 (蔚山)、薺浦(熊川)の三つの港を開いた。
そこには日本人居留民が住み、貿易を行い、日本からは銅や銀、火薬の原料になる硫黄、南蛮貿易品などが輸出され、朝鮮からは人参、虎皮、綿布などが輸出されたが、当時日本では綿布を生産できる技術がなかったという。
また、李王朝の崇儒排仏政策は、高麗時代に素晴らしい花を咲かせた仏教文化の経典や仏画、梵鐘などの多くの秀作を日本に持ち帰らせることとなった。
豊臣秀吉が天下を取った時、朝鮮から祝賀使節団が派遣されたが、その翌年一五九二年「壬辰倭乱」(日本では文禄の役)が起きた。秀吉のこの不意討ちに、天下太平の夢を貪っていた李朝は、蹂躙されるがままだったが、李舜臣将軍の活躍によって、日本水軍は壊滅した。また民衆の義兵活動も強力となり、秀吉軍は敗退を余儀なくされた。
一五九七年秋、秀吉は軍を再編成して再び侵略した。これを「丁酉倭乱」(日本では慶長の役)というが、一年後に秀吉が病死し、終結した。
七年間にわたるこの戦乱で、李朝の民衆は塗炭の苦しみを味わった。一方で、多くの儒者や陶工が拉致されたことによって、日本文化の向上に貢献する結果となった。
天下を制圧した徳川家康は、秀吉軍に拉致された朝鮮人千七百二人を送りかえすなどの誠意を見せて朝鮮との交隣関係を回復した。そして、対馬藩が両国間の善隣関係を担当し、以後、 一六〇七年から一八一一年までの間に十二回の朝鮮使節が訪れた。
四百名前後からなる通信使一行は、朝鮮から大坂(大阪)までは船で、その後は陸路をとり、京都、名古屋、江戸へと向かった。当時の先進文化を運ぶ通信使には学者、画家、医者、楽隊などが同行し、沿道は黒山の人だかりで、滋賀県の琵琶湖左岸には朝鮮人街道が残され、所によっては唐(韓)人行列や踊りなども残されている。
朝鮮通信史の存在を広く知らしめたのは、朝鮮通信使の著書『海遊録』を翻訳した姜在彦氏である。また、朝鮮通信使の絵巻物を発掘した故辛基秀氏の業績も偉大である。