記事一覧

黄七福自叙伝「北送のこと」

 

黄七福自叙伝34

「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」

 

第3章 民団という組織のこと

北送のこと

在日同胞の北送反対闘争も大きな出来事であった。

北送というは、在日同胞を北朝鮮へ送還させるというもので、国際赤十字社を介して、日本赤十字社と北韓赤十字社とが秘密裏に押し進めていた。

一九五九年一月三十日、藤山愛一郎外相が記者会見で「在日朝鮮人の北朝鮮帰還の具体的な措置を取る」と発表、さらに二月十三日の閣議で「在日朝鮮人の北朝鮮帰還を実施する」ことを決定する旨を発表した。

この電撃的な発表に、在日同胞社会は大きな衝撃を受けた。

日本政府は、北朝鮮の狙いが労働力の確保と軍事力の増強であることを知りつつ、共産圏との交易を図る一方で、在日朝鮮人の追放を狙うという一石二鳥の政策を推進したのである。

この追放政策に、日本の世論は一致団結するかのごとくであった。

日本の国会も満場一致で「追放」を可決したし、マスコミはもちろん、芸能人を看板に「人道主義」を喧伝した。

各地に「日朝協会」や「在日朝鮮人帰国協会」を設立し、朝総連の帰国対策委員会と歩調を合わせて「北朝鮮は地上の楽園」とか「北朝鮮は豊かな国」とかの甘言を流布し、在日同胞の”望郷の念”を逆手にとって北朝鮮送還を推し進めたのである。

民団中央本部(金載華団長)は一九五九年二月二日に「北送反対闘争委員会」を設置し、二百人がバス三台に分乗して、衆議院議長や藤山外相、船田中・自民党外交調査会長らに陳情に向かった。

「自由世界は共産暴政下の人々を救い出そうと努力しているのに、逆に送還することは非人道的である」という抗議文を手渡し、日本政府の反省を促した。

また、日本政府が北送計画を最終的に閣議決定する前日の二月十二日、全国から三百余人が参集し、手に手に”北送反対”のプラカードを掲げて外務省と国会に陳情デモを行なった。

民団大阪本部でも、崔寅柱団長を委員長、金守哲副団長を副委員長とする「北送反対闘争委員会」を設置、在日同胞の密集地や駅前に宣伝カーを差し向け、”北送反対”を訴えた。

これに対し、朝総連は、民団の啓蒙活動を阻止しようと躍起になり、各地で紛争が相次ぎ、時には流血の騒ぎになることもあった。

一九五九年の第十四回光復節記念式典は「八・一五北送反対民衆決起大会」を兼ねて全国各地で開かれた。

大阪では堺・浜寺公園に特設広場を設け、七千余人がバスで続々と詰めかけ、かつてない大規模な決起大会となった。

「北送反対」のプラカードで埋め尽くされた決起大会は大きな怒りで沸きかえり、李承晩大統領と岸信介首相に送る「在日同胞北送反対の決議文」を採択した。

北送反対の自転車抗議団も構成され、「撤回せよ北朝鮮送還」「人道主義の仮面を取れ藤山外相」などのプラカードを掲げて、全国から東京に集結した。

二十三名からなる自転車抗議団は、外務省に乗り込んだ。守衛の制止を振り切って大臣室前に座り込み、山田外務次官と面会、関西代表の金峰生が託された抗議文を読み上げ伝達した。

抗議団は外務省の正門前で万歳を三唱し、駐日韓国代表部(現大使館)に向おうとした時、正門前で自転車が私服警察官に接触したことから騒ぎとなった。

警備員が不法侵入を理由に抗議団をなじったことから抗議団が憤怒し、外務省正門玄関口で小競り合いとなった。このため、抗議団の金致淳・民団東京本部組織部長ら三人が警察に連行されたことから、民団中央本部は厳重抗議した。

「如何なる方法に訴えても北送を阻止する」という民団の北送反対闘争にもかかわらず、一九五九年九月二十一日から全国の市町村役場を窓口に、北朝鮮帰還申請の受付が一斉に開始された。

民団は、申請受付の九月二十一日、東京・日比谷野外音楽堂で、大阪、北海道をはじめ全国から六千余人が参集して「在日韓国人北送絶対反対中央民衆大会」を開いた。

決議文を国際赤十字社のジョノー副委員長と日本赤十字社の葛西副社長に手渡し、北送業務の即時中止を求めたが、拒否された。

そのため、曺寧柱団長はじめ四十八人が、同日午後七時から東京芝公園増上寺公園(東京女子会館前)にテントを張り、無期限の断食闘争に突入した。大阪からは六人が参加し、日赤玄関前で断食闘争を敢行した。

断食闘争の六人は、金明浩(本部組織部長)、沈鳳碩(西成支団長)、金三国(旭支部顧問)、姜吉満(韓青本部団長)、厳柱一(韓青本部副団長)で、残暑厳しいなかでテント前に太極旗を立て、「北送決死反対」のハチマキとタスキをかけ、ハンストを決行した。

時の柳泰夏駐日大使や日赤の大島衛生部長らが現場を訪れ、ハンスト中止を申し入れるなどして、九月二十六日、百四十五時間におよぶハンストを中止し、声明文を発表した。

一九五九年十二月十四日、北送第一次船が新潟港から北朝鮮の清津港に向けて出発した。

その五日前の十二月九日、民団近畿地区協議会による「北送反対民衆決起大会」が大阪市立体育館で開かれ、近畿一円からバス五十余台で一万余人が集結した。

「同胞よ! もう一度考え直そう」「地獄の国に帰るな!」などのスローガンが掲げられた会場は、北送反対の怒りが充満し、車忠興民団大阪本部団長は「人道主義に反する同胞の北送を一人でも多く阻止しよう」と訴え、婦人らの涙が会場を覆った。

第一次北送者が東京品川駅から列車便で新潟駅に向う十二月十日午後八時三十分、品川駅表玄関口は五百余人の機動隊とトラックでバリケードが築かれた。

北送列車が入る九番ホームには鉄道公安官と二千余人の朝総連行動隊が隊伍を組んで、アリの子一匹通れないほどに厳重警戒態勢が布かれていた。

同日午後五時、民団・韓青の六百余人が品川駅になだれ込み、機動隊と激しくもみ合い、声高らかに建国行進曲を合唱、北送反対の気勢をあげた。

翌十二月十一日、大韓青年団大阪府本部(姜吉満団長)は近畿地区から二百余人の青年決死隊を動員して新潟に向い、全国から集結した三百余人と合流した。

新潟駅に通じる萩川駅付近に集結した青年決死隊は、東京から新潟駅に入る北送列車を阻止するために、寒さをものともせずに線路を枕に寝込んだ。

このため、北送列車は数時間にわたって立ち往生し、出動した機動隊と線路上で激しい衝突を繰り返し、時には乱闘となって、三十余人の青年が負傷した。

決死闘争に燃える青年らは再び新潟駅に集結し、ホームや路線に座り込んだが、ここでも機動隊にごぼう抜きにされ、二十余人の青年が重軽傷を負った。

このような激しい反対にもかかわらず、北送第一次船は九百七十五人を乗せて出港した。この非人道的な北送によって、一家離散の悲劇は枚挙にいとまがない。

韓国政府も再三にわたり、時には「送還船を実力で阻止する」と海空軍の出動をも示唆するなどして北送反対を表明したが、しかし、日本政府は北送を実施したのである。

そのため、民団中央本部は、それをただの脅しに過ぎなかったとして、柳泰夏大使の引責辞任を要求したのである。

関連記事

コメントは利用できません。