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黄七福自叙伝「四・一九学生革命のこと」/「五・一六軍事革命のこと」

 

黄七福自叙伝35

「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」

 

第3章 民団という組織のこと

四・一九学生革命のこと

祖国が解放され、李承晩が大統領になったが、李承晩政権は不正腐敗の温床であった。

問題は、原因があるから結果があるということである。

こんな話も聞いたことがある。

「モヤシのスープは頭だけが浮いて、身はみんな軍の偉い人がとって横流しした。それでは国が滅びる」と。

四捨五入という不正選挙に、国民が怒り、若い世代が蜂起したのだ。

その四・一九学生革命は、学生や若い世代の国を思う気持の爆発であったから、それはそれで高く評価できることだ。

四・一九学生革命で、李承晩が退陣し、尹譜善大統領と張勉内閣が登場した。そして、民主化しようと急いだが、治安が大いに乱れた。日本の新聞などが「韓国は統治能力がないのではないか」とまで書くほどに見下げられた。

独立、独立といっているのに、自分の国をよう治めんじゃないかといっているわけで、はずかしい話だった。デモが続出し、「ワシの脚、どないしてくれるんか」と、国会までもが一時、傷痍軍人に占領されたりし、収拾がつかなかった。

民主主義を経験したことがなければ、民主主義は自由のことだと錯覚し、権利ばかりを主張して、義務を果たさないことになり、そのため、民主主義にも段階が必要だと多くの人が思ったことだろう。

民心がアメリカ式民主主義を受け入れる段階まで発展していなかったのだ。

 

五・一六軍事革命のこと

しかし政情は大いに混乱し、そういう治安のない世情を憂うるあまり、一年後には五・一六軍事革命が起き、朴正煕軍事政権が登場した。

私は、テレビは目が疲れるからあまり見ないが、ラジオは目を瞑っていても聞こえるから、枕元にいつもラジオをつけっぱなしで寝るのがクセになっている。

あれは朝の五時だったか、六時だったか、軍事革命を伝えるラジオで放送があった。駐日代表部のチャン・ジェヨン代表にすぐ電話をした。

そして、軍事革命だということを知った。その当時は総領事館でなく、代表部だった。チャン・ジェヨンが代表で、江原道出身だった。

尹譜善大統領治世下の治安の乱れに不安を感じ、祖国を共産主義から守るためには、国民が認識しなければならないと考えていた。備えあれば憂いなしの、秩序のある国家を望んでいたから、統制がとれるであろうと軍事革命を歓迎した。

五月十六日の未明、朴正熙少将の率いる国軍が無血でソウルに進駐するや軍事革命委員会を組織、三権を掌握し、六項目の革命公約を発表した。

すなわち、反共主義国連の尊重、米国やその他の自由主義諸国との連帯の強化、汚職の根絶、自主・自助的経済の確立、そして国家統一と、革命の任務を完了した後には軍政をただちに文民統治にきりかえるという内容のものであった。

この軍事革命に対し、民団中央本部は、第二十七回中央大会で「軍事革命を支持する」と決議したが、傘下団体である韓青中央本部は五月二十七日の声明で「軍事委員会の革命に反対する」と発表し、対立を深めるようになった。

朴正熙少将は一九一七年に生まれているから、その時、四十四歳であった。

慶尚北道善山郡(現在の亀尾市)の貧しい農家の末子であった。父は科挙に合格したが、日韓併合で没落し墓守をしていた。大郎師範学校を卒業し教師をした後、満州国軍の新京軍官学校で学び、首席で卒業した。

成績優秀のため、選ばれて日本の陸軍士官学校に留学した。創氏改名によって高木正雄と名乗り、一九四四年に五十七期生として陸軍士官学校を卒業し、終戦時は満州国陸軍中尉だった。

朝鮮戦争勃発とともに軍役に復帰し、さらに戦闘情報課長から作戦教育局次長へと昇進した。軍事革命当時、陸軍少将の地位にあり第二軍副司令官だった朴正熙は、陸軍士官学校第八期生を中心とするグループに推されてリーダーになった。

陸士八期生は解放後、韓国が自力で訓練した軍人たちであり、その中心人物が金鐘泌であった。

朴正熙は「軍事革命委員会」を「国家再建最高会議」と改称し、治安向上や経済改革などを実行に移した。

六月十日には中央情報部を発足させ、七月三日には張都暎が失脚した。一九六三年八月に大統領選に出馬、前大統領の尹譜善を破り、当選した。

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