俳句が世界的なブームになっているらしい。このことを知ったのは、だいぶまえの話で、何をいまさらという人もいるかもしれない。といっても、一般的な話ではなく、一部の文学者の間での話であるが。欧米の文学者の間で、短詩系の詩をHAIKUと呼んで盛んに試作されているようだ。
もちろん、HAIKUは日本の俳句とは同じものとは考え難いが、それでも、日本の俳句の翻訳が契機になって、長い詩に親しんできた西洋の詩人たちに、刺激を与え、新しい形式を試作させるきっかけになったことは間違いない。
かつては、日本の江戸時代の浮世絵がフランスの印象派絵画に影響を与えた事例が思い出されるが、絵画は文字ではなく、ビジュアルなものなので、容易に国境を越えて、外国人にも理解され影響させることができる。
しかし、俳句は日本語の形式で定型という、575という文字数が限られた韻文なので、この短い中に詩人のインスピレーションを閉じ込めるのには、その根底に日本語という民族文化の歴史が背景にあってこその表現である。その微妙なニュアンスは翻訳を通しては伝えきれない、むしろ不可能といっていいだろう。
では、まったく日本語の粋の結晶である俳句が翻訳されて、外国人には理解できないものなのだろうか。これもまた極論だが、そうとも言い切れないと感じる。
というのも、近代詩を含めた日本文学が現在のように発展してきたのも、海外の文学の翻訳による紹介から成り立っているからである。江戸時代の戯作文学が、近代的人間の描写へと移行するきっかけになった二葉亭四迷の小説は、ロシア文学の翻訳が大きな要素となっている。そのほか言文一致を唱えた坪内逍遥も、英文学のシェークスピアなどの翻訳によって影響された試作(「当世書生気質」など)が出発となっている。
もちろん、近代詩も同じような経路をたどっているが、これらの外国文学の紹介者たちは、原文を読みこなしていたので、西洋文学の神髄を理解し、それを日本に移植してもほぼ当時の日本人にも理解されると信じていたのである。
とはいえ、小説の翻訳と詩の翻訳を同じように考えるわけにはいかないのも確かである。おそらく小説が7、8割ぐらい理解されても、詩はその民族特有の文化的意味、言葉のニュアンス、発音の響き、音楽性などの要素を考えれば、その詩の本質を味読鑑賞できるのは、半分以下になるかもしれない。
それは認めなければならない。しかし、たとえそうであっても、翻訳によって伝わるポエジー、詩の本質の一部はあるだろう。それがうかがわれるのは、西洋の詩をまねて近代詩を主導してきた明治の詩人たちの詩作である。蒲原有明、薄田泣菫などの新体詩はその代表的なものだが、以降、西洋詩の模倣から島崎藤村やその他の詩人たちの日本語の独自な近代詩が生まれ育った。
それを考えれば、西洋の詩が媒介体となり、日本の詩人たちの覚醒があり、見よう見まねで試作しているうちに、日本語のオリジナリティーの詩が完成したといえるだろう。この場合、西洋の詩の翻訳は、作者の意図を十分に伝えたとまでとはいえないが、言語の壁を越えて日本の詩人の心に伝わったと理解できる。
そう考えれば、俳句が西洋でHAIKUとしてもてはやされ、新しい韻文として西洋人の美意識、詩人の魂をゆさぶったということだけは間違いない。それで十分とは言えないけれど、翻訳のもつ限界とその可能性を考える上では、今のところ一つの試金石となるとだけは言えよう。
(フリーライター・福嶋由紀夫)