黄七福自叙伝52
「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」
第4章 民団大阪本部の団長として
朝総連の謀略に乗せられたNHKのこと
第一回目の墓参団は、三十一人だったが、正々堂々と韓国を訪問したとき、NHKが七時のニュースか何かで、「訪問団はほとんどが民団の人で、朝総連の一人いるかいないかだ」と報じた。
で、大騒ぎになった。それを民団大阪本部の団長が言っていたというのである。
「どういうことか」
と、趙一済総領事から電話があった。
しかし、誰がどう言おうと、私の思想性は絶対的な信用があった。
「あの団長がそんなこと、言うはずがない」
ということになった。
調べてみると、「団長が言っていた」と言うその団長の顔が不明だった。
さらに調べると、朝総連の謀略であったことが分かった。天下のNHKがまんまと乗せられたのである。もちろん大騒ぎになった。
池尻新聞記者らが走り回った。ある記者が、「団長、民団とNHKと闘うつもりか。闘っても両方ともプラスになることない」
というわけで、妥協案が提示された。
その妥協案は、韓国の行事と日本の行事の共通点をNHKが連続で流すというものだった。私も承知した。
宣伝部長の宋政模が窓口で、NHK大阪が、NHK東京本部に計画書を提出してやることになった。
ところが、中央本部は予算問題でできないということになった。
宋政模がその実情を私に報告すれば、私が本国に報告して予算は確保できるようになっていたのだが、その報告がなかったために、失敗という結果になった。まことに残念というほかなかった。
墓参した朝総連系同胞の感激のこと
朝総連系同胞が、父の遺骨、母の遺影を胸に抱いて、三十年ぶりに四十年ぶりに故国を訪れる姿は、人々の心を打った。
韓国政府や国民の心温まる歓迎のなかで、母国の懐かしい姿と躍進工業国の発展を目にして、誰しもが驚嘆し、数十年ぶりに肉親と再会すると、感極まって号泣した。
そうした涙の対面のあとは、故郷での先祖の墓参りであったが、そこでも号泣の涙は天に届く有様だった。
朝総連系同胞はすべて無事に帰日したことはいうまでもなく、その喜びの声が同胞社会にくまなく伝わり、第二次(一九七五年六月二十四日出発、三十二人)、第三次(同年九月十六日出発、九十三人)の墓参団が相次いだ。
民団大阪本部が先鞭をつけた朝総連系同胞墓参事業であったが、翌七六年一月の朝総連系同胞旧正月省墓団には、大阪からの千三百五十人を含む全国三千人余が参加、続々とソウル入りした。
金浦国際空港は千人余の肉親と歓迎陣で溢れ、墓参団参加者の氏名を書いたプラカードや横断幕を掲げて肉親を探した。
そして、数十年ぶりの再会で泣き崩れる肉親らの号泣が天まで届く光景であった。
歓迎会が各地で行なわれた。ソウルでの歓迎式典がソウル国立劇場で開かれ、感激がきわまるなか、ソウル汝矣島小学校五年生の崔貞美ちゃんが次のように訴えた。
私のおじいさんとおばあさんは、三八度線の向こうの元山という所に住んでいるようです。私の父は韓国動乱の時に南の方に避難して来て、直ぐにも再会できる思いだったのですが、今になっては何の便りもなく、安否も判らないようになったということです。
父は名節(正月)の日が近づくと、ご飯も食べず、ぼんやりと窓際に立ち、北方の空をながめる習慣が身につくようになったと言います。ある日、酒に酔った父が、なぜか一人で泣いているのを見たのです。父を泣かせた人々が憎くてたまりません。
昨年の秋夕の時、日本に住むおじいさんとおばあさんが初めて韓国に来た時、兄弟や親族が抱き合って泣いているのをテレビで見ました。あるおじいさんは飛行機から降りると、地面に類をこすりつけながら泣いているのを見て、私の家族はみな泣きました。
私もあのように、おじいさんやおばあさんに会えることができたなら、と思うと涙が出て、どうしようもありませんでした。
この幼い少女の訴えに、会場は涙の洪水となった。
一九七六年六月の一週間、駐大阪韓国総領事館で「故郷を取り戻した人々―朝総連系同胞三十年ぶりの韓国訪問」と題する記録写真展が開かれ大きな反響を呼んだ。
米ニューズウイーク誌(七六年一月十九日付)も民団が推進している墓参事業を取りあげ、「心と精神」という見出しで報道した。