日本の文学の伝統に各地を放浪しながら、歌や俳句を詠む隠遁者の存在があることはよく知られている。
例えば、朝廷に仕えた北面の武士が世を捨てて「西行」と名乗って各地を放浪し、歌を詠み生涯を過ごした例がある。その歌は専門の歌人をしのぐ名歌として知られ、勅撰和歌集の新古今和歌集にも採択された。
西行の出家には、いろいろな説があるが、当時の殺伐とした社会世相が背景にあり、出家をすることで、社会の秩序外に身を置くことで、そのしがらみ、責任から逃れるという意思を示したのである。
仏教は武家政権の中にあって、生死を超えた安寧を得る手段であり、死後の世界で成仏を叶えさせてくれるものだった。だから、出家した者はこの世の社会的には「死んだ立場」であり、武家たちにとってはアンタッチャブルな存在になった。
地位・名誉を捨てることで、その代わりに自身の生命と安寧を守るといった立場。もちろん、それを利用して政治にくちばしをはさむ例もあったが、基本的には社会外の存在と見なされた。
この伝統はその後、一種の文学の伝統となり、実際に出家していなくても、僧形の姿をして托鉢行脚する例が見られた。
江戸時代の芭蕉もその一人で、西行を尊敬して、放浪者を自任して各地を遍歴した。芭蕉の後には職業として俳句の宗匠となって、各地の豪農や豪商のつてを頼って生活した。自分の俳句の弟子たちを養成してそれを生活のパトロンとしたのである。
その伝統は、やがて俳句の文学的な衰退となり、それを形成できない俳人は太鼓持ちのようにパトロンに寄食するか乞食となっていくしかなかった。
それらの放浪文学者は、現実社会の政治には関与しない伝統的があった。近現代の放浪文学者の代表的な存在である種田山頭火も、その例に漏れない。
それに対して、韓国の放浪文学者は、日本とは違って積極的に政治に関与したといえるかもしれない。
というのも、放浪する背景の思想宗教が違っているからである。日本の場合は、仏教的無常観があったが、韓国(特に李氏朝鮮王朝)の場合は、儒教であり、儒教はどうしても現実的な政治と関わり、それを改革するために働きかける面がある。
だから、政治的に失脚して引退し故郷にこもっても、それは社会的にワクから外れて埒外になったというのではなくて、要するに再起の機会をうかがう雌伏期間のことを意味しているのである。
決して現世への執着がなくなったわけではなく、むしろ虎視眈々と自分が再び政治の表舞台に出る機会を待っているという期間なのである。
だから、自然の山川草木を愛でていながら、その一方では、中央の政治から漏れ伝わってくる情勢に耳を傾ける。それは隠遁者した政治家だけではなく、放浪文学者でも変わりはない。
代表的な放浪文学者の金笠(1807~63)は、元は両班(ヤンバン)の名門・安東金氏につながる名門だったが、祖父が大逆罪に問われ、両班を廃される「滅門廃族」となり、転落の人生を歩むことになる。
金笠は、幼少から有り余るほどの才能があったが、この出自のために、出世の道を閉ざされ、官僚になるための科挙の試験も受けられないことになった。
そのことを知った金笠は、絶望して、朝鮮半島各地を流浪し、その詩の才能ひとつをもって生活をした。両班などの家で行われている宴会などの場で、見事な詩を作って華を添え、それによって飲食のおこぼれに預かった。
それが金笠にとって、楽しいことではなかったことは間違いない。自分よりも詩才も文章の才もないのに、ただ貴族ということで豊かな生活をしている。
その矛盾への怒りは、詩の中に込めた風刺、激烈なユーモアをもって批判した。政治的な立場はないが、詩という言葉で社会に参加し、その矛盾を改革しようとしたのである。
文官の立場にあった両班といえども、文学の素養があったわけではない。一部の特権階級が政治を独占した状況への不平不満、そしてその悲しみが金笠の人生を彩っている。
同じ放浪文学者といっても、このように日本と韓国では両者はまったく違った側面をもっている。仏教と儒教という宗教の違い、それが両者を分かつ分岐点である。
金笠は本名ではない。笠という名前がついたのは、金笠が各地を遍歴したときに、いつも笠をかぶっていたことにちなんでいる。
おそらく金笠は、両班が常に貴族のしるしとしてかぶっていた帽子に対抗して、罪人の家系であることをことさら示すことによって、抗議の意味を込めて笠をかぶっていたのだろう。
金笠は、哲宗の治世下、57歳の時に全羅道の路傍で亡くなっている。
(フリーライター・福嶋由紀夫)