2019年のNHKの大河ドラマは、通常の歴史的な人物に焦点を合わせたものではなく、2020年の東京五輪開催の前年ということで、戦前戦後の日本の復興と東京五輪開催(1964年)までの道のりを描いた特別なドラマ「いだてん」(宮藤官九郎脚本)になる予定。
宮藤官九郎は、NHK朝ドラマの「あまちゃん」で、独特のユーモアと視点から描いた人気脚本家だが、「いだてん」もちょっと変わった構成となりそうだ。
もちろん、歴史的な人物が出てくるが、基本的には、日本人が初めて参加した1912年のストックホルム大会から自国開催に成功した2人に焦点を与えるもの。一人は、初参加した男の金栗四三、もう一人はオリンピックを招致した田畑政治である。
金栗は、ストックホルム大会に参加したものの、途中でリタイアし、競技人生としては失敗したが、その後、日本のスポーツ振興に力を尽くし、箱根駅伝などの発案者にもなっている。田畑は、第二次大戦敗戦で停滞していた日本の復興をオリンピック招致によって成し遂げている。
そのほか、語り手に落語家の古今亭志ん生、柔道の創始者の嘉納治五郎などが登場する。いずれにしても、変わったドラマとなりそうなことは間違いない。
現在、世界的なスポーツ精神を体現したオリンピックは、古代のギリシアの都市国家オリンピアから発祥し、その後、クーベルタン男爵によって近代オリンピック精神が提唱されて、現在に至っている。
古代オリンピックは、もともと現代的なスポーツ精神ということで始められたわけではなく、神々に捧げる宗教的な儀式だったのである。
そのために、この古代オリンピック開催の期間中は、アテネやスパルタなどの都市国家同士の戦争が停止され、ギリシア全土がこの競技に参加した。
この期間は仇敵同士であっても、仲良く試合に参加し、勝敗を争ったのである。これが、現在に至るまでのスポーツ精神の源流となっている。
その意味で、スポーツが平和の象徴となる嚆矢(こうし)は、古代オリンピックが出発となっている。
現代、オリンピックは平和の祭典ということになっているが、その背景には、ただの祭典ではなく、国威発揚や個人の栄誉と欲望のための劇場、商業主義の温床やステージになっている面も否定できない。
その点では、神々への儀式であった宗教生を含んだ古代オリンピック精神とは違っている。宗教という側面がない近代オリンピックは、もちろん、フェアな精神ということを謳っているが、その実、国家が関与したドーピング問題や選手の報奨金や特別待遇を狙っての不正もあとを絶たない。
とはいえ、古代オリンピックでも、優勝者は全ギリシアの英雄として讃えられるために不正はあったことは間違いない。
その上、現代のようなただ単に記録や数字を争うだけのスポーツではなかったため、競技によっては勝負を超えた戦闘という域にまで過熱した面もある。
特に、レスリングでは、勝負が行き過ぎて相手を殺してしまうまでに至ったことも少なくない。それは、古代のスポーツが神々の儀式であるとともに、その部族や都市国家の盛衰の運命を決めるものだったからである。
勝者は、神々の加護と祝福を受けたということであり、それはとりもなおさず、その選手が所属している都市国家の運勢も象徴したものと見なされていたために、勝つか負けるかというのは、個人の勝負ではなく、スポーツという名を借りた国家の戦争だったからである。
要するに、翌年の豊穣を占う豊穣祈願の神事という側面を持っていた。勝てば、翌年の豊穣を神々が約束したと見なされた。
それで、勝敗にこだわる真剣勝負にならざるを得ないし、選手はその期待を一身に背負った代表者であったのである。
それは、日本の伝統的スポーツ(競技)の神事でもあった相撲を見ればいい。相撲は、第11代垂仁天皇のときに行われたが、そのときの選手、タイマノケハヤとノミノスクネの勝負では、ノミノスクネがタイマノケハヤを殺している事例からでもわかる。
ノミノスクネは、殺人を問われることがないだけではなく、むしろ称賛され、タイマノケハヤの領地も与えられた。
古代の神事から始まったスポーツは、現在の近代スポーツと一線を画するものだったが、ただ、そこで血を流す戦争の中止という平和の概念から出発していることだけは確かである。
改めて、そのようなスポーツ、オリンピックの原点を振り返ってみると、不正や様々な問題があるにしても、今後のグローバリズムの世界、地球家族の時代、平和のカギを握っている一つは、スポーツであることは間違いないのである。
(フリーライター・福嶋由紀夫)