3・1独立闘争100周年を迎えて
卞宰洙
[I] 3・1独立闘争の経緯と意義・教訓
今年の3月1日は、日本の植民地統治に抗拒して、朝鮮人民が総決起した3・1独立闘争から数えて100周年を迎える節目の年である。
3・1独立闘争は、日本帝国主義の苛酷な植民地支配と朝鮮人民との民族的矛盾・社会的矛盾が極度に達して、朝鮮全土に反日帝の気運が高揚したことが主因となり、労働者・農民・知識人・学生・一般市民が総決起した闘いであった。この全民族的蜂起の根底には、1894年の甲午農民戦争と義兵運動の愛国精神が息づいていた。
第一次世界大戦後に米大統領ウィルソンが提唱した民族自決主義が、3・1独立運動の遠因であった。日本に留学した愛国的学生は、1919の初頭に「独立宣言書」の作成と運動資金の募集をはじめた。こうした情勢のもとに、民族自決主義の原則に期待を寄せた天道教・キリスト教・仏教の「三派連合」を結成したブルジア民族主義者らは、33人の代表を選出し、非暴力・無抵抗主義を主旨とする独立宣言書を成文化して独立請願運動の推進を計画した。ところが彼らの他力本願的な目論見は青年学生らによるデモ行進で打ち砕かれた。デモ行進はピョンヤンではじまった。数千の大衆がピョンヤン将台丘にある崇徳女学校の運動場に集まった。数千の民衆の前で独立宣言書が朗読された。将台丘は「朝鮮独立萬歳」の歓呼につつまれ、人々はいっせいに独立萬歳を叫び市街を行進した。時を同じくしてソウル(当時は京城)のパゴダ公園でも独立宣言書が読み上げられ、独立萬歳のデモ行進が開始された。ピョンヤンとソウルの民族蜂起は燎原の火のように主要都市に広がった。ここで重要な役割を果たしたのは愛国的青年学生と覚醒した知識人であった。彼らはデモ行進を指導し『朝鮮独立新聞』をはじめ各種の地下出版物や伝単を発行して全国の闘いをリアルタイムで知らせ民衆に決起を呼びかけた。
平和的なデモ行進ではじまった闘いは次第に暴動の性格を帯びるようになり激烈の一途をたどった。(暴動(RIOT=ライオット)へと発展した要因は日帝軍警の暴虐な弾圧であり、また隊列に労働者と貧農が積極的に参加したことである。
3・1独立闘争の暴力的展開はピョンヤンを中心とする西北朝鮮地方から始まった。闘争が高揚すると平安南道の大同郡古平面(現在のピョンヤン市万景台区域)の民衆は手に手に斧や農器具を握りしめピョンヤンの中心街を目指して行進した。当時7歳の少年金成柱(金日成主席)も隊列に参加していた。
「私たちは朝早く食事をとり、家族みんなで独立万歳のデモに参加した(中略)。七歳だった私も、すり切れた履き物をはいてデモの隊列に加わり、万歳を叫びながら普通門まで行った」(雄山閣刊『金日成回顧録―世紀と共に―』第1巻。)
金日成主席のこの回想は年少者までもが闘いに参加した事実を如実に示している。
独立闘争は3月下旬から4月にかけて頂点に達した。この間に1,491件の暴動が組織され、憲兵分遺所、駐在所、郡庁、面(町村)事務所、地方裁判所が破壊された。全国の232の府・道(県)・郡のうち2か所のみを除いたすべての行政区に暴力は拡大し、参加者は2百万人余を数えた。当時の総人口が1710万人余であったことを勘案すればその規模の大きさを知ることができる。
民族をあげての独立闘争に直面した朝鮮総督府は戦時編制の二個師団と2万人以上の憲兵と警察を動員して弾圧に狂奔して7500余名を虐殺し、15,900余名に重軽傷を負わせた。そして17,000余名を検挙して裁判にかけ5,150余名が懲役刑に処せられ多くの獄死者が出た。
そうした犠牲者のなかでも、2人のうら若い乙女の獄死は痛恨の極みだと言わざるを得ない。当時、梨花学堂(現梨花女子大学校)に在学中であった柳寛順は太極旗を振りかざしてデモ行進の先頭に立ち、憲兵に逮捕された。獄中闘争をくり広げたが1920年10月西大門刑務所で、日帝の滅亡を信じながら、拷問の痛手で獄死した。時にわずか16歳であった。
柳寛順と同じように西大門刑務所で16歳を一期に獄死した乙女董豊信も咸鏡道で太極旗を掲げてデモ隊を先導した。獄中で監守らと闘って非転向をつらぬいた彼女の愛国心は、純粋で貴いものであった。残念なことに董豊信については詳細はわからず、彼女が咸鏡道出身なので韓国ではあまり知られていない。
虐殺については、朝鮮史に造詣の深い学者・信夫(しのぶ)清三郎氏が「日本憲兵は峻烈な弾圧に狂奔した(中略)日本憲兵の暴虐非道は言語に絶し、銃剣で刺殺し、吊首をもって処刑した」と指摘している(『大正政治史』。)なお、在朝鮮の日本居留民もが猟銃、ピストル、日本刀などで武装し「防衛国」を組織して虐殺行為をはたらいたことは忘れてはならない。この事実は、関東大震災の時に一般住民が自警団を結成して朝鮮人をほしいままに殺害した事実と一脈通ずるものがある。
3・1独立闘争は、日本国内では、不穏分子に扇動された騒櫌事件であると報じ独立運動であると正確には伝えなかった。また、朝鮮と関係の深かった知識人らの言動はさまざまであった。朝鮮を歴史ながい民族であると考え、朝鮮人クリスチャンに寄りそっていた碩学内村鑑三は、日本人が朝鮮でしたことを心から申しわけなく思ったと、ある書簡のなかで述懐している。植民地政策で多くの論文を発表した矢内原忠雄は、3・1運動は日帝の同化政策の失敗であり、自主主義が必要であると説いて、堤岩里の事件(虐殺)は無かった方がよかったと指摘した。京城帝国大学の教授を務めた安倍能成はこれといった反応を示さなかった。民本主義を主導した吉野作造は植民地統治の非人間性を批判して同情を示した。朝鮮の民芸品の芸術性を高く評価した柳宗悦は「3・1運動は起こるべくして起きた」と述べて、総督府の苛酷な統治を批判し朝鮮民衆に同情を示した。これら5人の知識人の考えに通底してはいるのは、総督府の統治政策を批判し朝鮮民族に同情や理解を示しているが、日帝が植民地を解消して独立を認めるべきだ、という根本的な問題には論及しなかったことである。
しかしながら、1956年に総理大臣を務め(病気で2か月の短命内閣)、戦時中に『東洋経済新報』で健筆をふるった石橋湛山は違っていた。彼は、朝鮮人で日本の植民地たることを願う人はほとんどいない、3・1運動の民族的要求を叶えて植民地を放棄し朝鮮を独立国家(彼の言う自治の民族国家)にすべきであると唱えた。これは実に刮目に価する提言であった。
中国の5・4運動を触発し、インドの独立運動(1919年4月)にも影響を及ぼした3・1独立闘争は、日本帝国主義の植民地支配に甚大な打撃を与え、朝鮮人民の不屈の闘争と愛族・愛国の革命精神を誇示した。そしてこの闘いは貴重な教訓を残した。それは第1に、革命闘争は卓抜の指導者のもとに科学的な綱領を策定して組織的に展開する時にのみ勝利するという教訓である。第2に、自主的な人民大衆の力量に依拠し、支配権力に請願したり外国の善意に頼らず、自主独立の意志で団結して自力で権力を奪取すべきであるという教訓である。
3・1独立闘争以後、朝鮮の民族解放闘争はブルジョア民族主義運動をアウフヘーベンし武力による日帝打倒への道を進んだ。それが、一時は旅団編制にまで発展した洪範図、金佐鎭らによる独立軍運動であり、続いて1930年代にはじまるコミュニストを中核とする抗日武装闘争であった。1945年8月8日、ソ連軍の対日戦参加にともなって、15星霜に及んだ、若き将軍金日成を指導者とする抗日戦争は勝利し、祖国朝鮮は解放を迎えた。
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