心霊現象についてのささやかな体験
私がフリーライターとして、さまざまなテーマを追っていたときのテーマの一つが、心霊や予言関係のものがあった。要するに、オカルト的な分野だったが、といっても、私自身はそれにのめりこんでいたわけではない。
その関係の本を読んだり、テレビの特番などを見るのは好きだったが、それに熱中して夢中になったという記憶はない。不思議なことだが、金縛りの体験はあったが、幽霊に出会ったこともない。そもそも怪談やホラーもそれほど好きではない。
それを否定するからではなく、もしのめりこむと、かなりな影響や精神的な打撃を受けるからという予測がつくからである。
私がこの分野に関心を深く持つようになったきっかけは、もちろん、多くの人々と同じようにノストラダムスの大予言からだった。五島勉氏の本の与えたインパクトは、今でも多くの人々が語っているけれども、当時高校生ぐらいだった私個人においても、将来への展望や希望を立てることができなくなって、一種の袋小路に入ったネズミのように心理的に追い詰められ、やや絶望的な気分だったことを覚えている。
当時のことを思うと、なぜあれほど未来が狭くかつ暗く見えたのだろうと思ったが、それほど当時の風潮やマスメディアの影響が大きかったということだけは言えると思う。知らず知らずの間に洗脳されていたということかもしれない。
ライターをやるようになって、仕事上からその関係の資料をあさりながら、いろいろ考えたり感じたりすることがあったが、それについてはここでは触れない。
ただ、その取材の過程で体験したささやかな心霊現象については、書き残しておきたい気がする。
といっても、期待されるような劇的な体験でも不思議な体験でもない。
天橋立(あまのはしだて)で有名な京都府の丹後半島に、かなり古い神社の籠(この)神社がある。ここには、国宝の最古の家系図が残されていて、心霊的にもかなり神話的な歴史や由緒がある場所である。
詳しくは知らないけれど、ここには古代に丹後王国があって、大和朝廷の成立前後、独自に栄えていたことは確かなようだ。
この籠神社の奥宮と呼ばれる場所が山の上にあって、私は知人に誘われて、この場所を訪ねた。その奥宮は「マナイ神社」(真名井神社)と呼ばれていたが、観光地となって観光客や信者が集う籠神社に比べてひっそりとした山奥の神社で、ご神体として岩が祀られているだけだった。
このときには、台風一過で、尽きることがなかったご神水が涸れたという注意書きがあったのと、山の斜面に生えている多くの木々がなぎ倒されて、ちょっと不思議な光景を現出させていたことを覚えている。
マナイ神社は、小さな参道と小さな本殿のような建物があるだけの場所だったが、どこか神錆びた雰囲気を漂わせていた。
参拝したのは私たちだけだったので、そのあたりをうろつきながら、かつてこの場所がどんな意味や目的をもっていたのか、などを想像したが、当時知識が乏しかったせいか、ただ茫然としていたといった方が当たっている。
このような聖地的な心霊スポットに行くと、無意識に何か特別な出来事、啓示などがあるのではないか、と漠然と期待したけれど、もちろん、そんな気配はない。
もともとそうした霊的な体質でもないし、先に書いたように、心霊的な体験も幽霊の目撃もない。よく話題になっていたUFOの目撃もない。
当時は、多くの青少年のように自分が特別な存在であると思っていたので、そうした奇跡的な体験を熱望したけれど、残念ながら、そうした体験はしなかった。
そんなわけなので、ライターとしての好奇心はあったけれども、それ以上に特別な意識はなかったように思う。というよりも、かなり冷め切った意識で、神社の周囲を観察し、古事記や日本書紀の神話などを思い起こして、何かしら特別な考察や意見を構築することもできなかった。
要するに、私はただの傍観者だった。とはいえ、ある程度の古代史の知識をもっていたので、この神社と神話のことを考えていたことは間違いない。
だが、しばらく時間をかけても何も思い浮かばなかったので、そのまま帰ろうと思い、最後に役に立つかどうかわからないけれども資料とするための写真を撮影しようと思った。
それで、カメラを抱えて、本殿というか小さな建築物の建物をレンズに収めて、シャッターを押した。
ところが、そのシャッターは、故障したかのように動かない。押しても何かにさえぎられるように押し切れない。
こんなことは初めてだったので、焦ってしまって、強い力を指先に集中したが、それでも動かない。わけがわからなかった。
故障したと思ったが、この神社を訪れる直前までは、何の問題もなくシャッターを切ることができていたので、不思議で仕方がなかった。
しばらく考えていると、知人が「どうしたんですか?」と聞いてきたので、カメラのシャッターが切れないということを説明した。知人は「そうですか」とたんなる故障だと思っていたようだが、そこで、私は直感的に、「これはここの神様が邪魔しているのじゃないかな」とつぶやいた。
「なんで?」
「私が神様に写真を撮ることの許可を取らなかったためだと思う」
知人は、この人は何を言っているのか?といった表情だったが、私は大まじめに神道の参拝の礼式にのっとって、柏手を打ち、敬礼した。
そして、おもむろにカメラを構え、シャッターを押すと、カシャッという音を立てて撮影できた。これが私のささやかな心霊体験だけれども、今でも鮮やかに覚えている出来事である。
(フリーライター・福嶋由紀夫)