ノーベル文学賞候補・村上春樹という現象
昨年は、ノーベル文学賞が選考委員のスキャンダルによって、選考自体がなかった。
このことが話題になったのは、日本人文学者として、作家の村上春樹が毎年、有力な候補者として挙げられることが多いからである。
毎年、恒例のようになった村上春樹のファンが集まって、選考発表を待ちながら落選の時は残念会をやって、それがマスコミに取り上げられていたほど。
一番、有力だったのは、一昨年の歌手のボブ・ディランが受賞したときかもしれない。だが、この時も、有力視されながら、作家ではないシンガーソングライターであるボブ・ディランに決定されたことは記憶に新しい。
ボブ・ディランが文学者という範疇(はんちゅう)に入るかどうか、という問題が起こったのも珍しい授賞だった。文学賞の幅を広げたという評価もあれば、文学賞を拡大解釈をしてしまったという否定的な批評もあった。
その意味では、従来の授賞にはなかった話題を提供したといえるだろう。そして、この授賞でわかったことは、ノーベル賞が科学分野以外、経済賞などは別として、平和賞ほど極端ではないが、それでも割合政治的な意図が働いているということである。
文学という芸術的な価値観であるよりは、その文学者が置かれた状況、専制的な国家体制に対して政治的なメッセージを発しているかどうか、その点を勘案していることが少なくない。
すなわち授賞によって、その国の政治的状況に一石を投ずるという側面がある。
たとえば、中国の反体制の文学者に対する授賞などは、いいか悪いかという面は別として、かなり政治的な効果を発揮した例だろう。
これは、評価は分かれるが、ノーベル賞が文学的・芸術的な貢献という文学的な評価ではないこと、その点で純然たる文学賞ではないということをよく示している。
ノーベル賞が、その根底に人類の歴史に貢献したという面と平和を実現するという目的があることを考えれば、それは仕方がないことでもある。
その意味で、ボブ・ディランが受賞したことは、その詩と歌のメッセージの中に政治的なものがあった、世界に大きなインパクトを与えたという側面が評価された政治的な評価への配慮があったことは間違いない。
もちろん、歌手であっても授賞対象になってもおかしくはないのだが、その理由があまり明確ではなかったことは注目すべきだろう。
これまで、日本人のノーベル文学賞受賞者は、川端康成、そして、大江健三郎がいる。そして、有力候補者になった文学者も、谷崎潤一郎、井上靖、安部公房、三島由紀夫などがいた。
その意味では、今年の選考への期待がかかるわけだが、果たしてどうなるだろうか。
来年のことを言うと鬼が笑うということわざがあるけれど、日本を代表する文学者の村上春樹のことを考えることは現代文学、特に村上春樹文学はどのような位置づけがされるのか、という日本文学の現状について考えることにも繋がる。
文学というものは、これまで「文弱」という侮蔑的な表現があるように、あまり肯定的な評価はされてこなかったが、古代の歌謡、万葉集にもみられるように、ある面では民族精神の声なき声、その精神的な政治性を秘めた表現であることは言うまでもない。
なぜ文学を考えることが重要なのか、というのは、それが常にある意味では、民族的な精神文化の象徴であり、人間の根源の声、平和への思い、祈りが根底にあるからである。
詩人・文学者は、神なき時代と言われる現代のさまよえる精神を体現した巫女、その平和のメッセージを発信する存在であることも確かである。
それにしても、今年終盤に行われるノーベル文学賞選考のことを今から考えても仕方がないといえばそうなのだが、最近、村上春樹の最新の長編小説『騎士団長殺し』が文庫版になって手に入りやすくなったので、改めてこの世界的な文学者について、少しばかり考えたくなったからである。
その上、ノーベル賞の中でも評価に疑問が出ている平和賞と並んで、なかなか評価しにくいのが、この文学賞ではないだろうかと思うからである。
その問題の一つが、言語の問題。要するに、その国の代表的な文学者であっても、その作品が外国語に翻訳されていなければ、その文学・芸術的価値が理解されないことがある。
その点で、最初の関門があるのだが、村上春樹の場合は、その点は問題ない。むしろ世界の若者などに熱狂的に支持されているといっていい。
ただ、問題はその文学の持つ政治的なメッセージがあるのか、という点である。最近、村上春樹はそれを意識しているせいか、文学賞の受賞スピーチで、平和や戦争について、言及することが多くなっている。
それだけ、作品を書くという側面だけではなく、平和に対して行動する作家(政治的に)として認められない限り、ノーベル文学賞受賞に手が届かないかもしれないという認識があるせいだろうか。
ただ、問題は村上文学には、果たして民族精神の発露や平和へのメッセージ、自由を求める人間の根源的な存在への深い視座や深みがあるかどうか、という問題である。
かつて村上春樹文学について、中国の文学者が「無国籍の文学」であるという批評をしているのを読んだことがあるが、その表現は村上文学の可能性と限界について、的確に表現していると思ったことを思い出す。
もちろん、村上文学の「無国籍」性が現代の世界状況・精神文化を深く照射している批評であるともいえるのだが、果たして、今年の文学賞に授賞されるかどうか興味深いものがある。
(フリーライター・福嶋由紀夫)