(2) 京都
炎天下、通信使の足跡を追う
朝鮮通信使は計12回来日したが、最後は対馬止まり。江戸まで行ったのは、11回である。京都での宿泊先は、第1回から3回まで(慶長12年から寛永元年まで)は北区の大徳寺、第4回からは下京区の本圀寺。いずれも上鳥羽(南区)の実相寺が通信使の休息所に使われている。本圀寺は下京区堀川通五条下ル(柿本町)にあったが、いまは跡地として確認できるだけ。
なお、本圀寺は徳川光圀の庇護を受けた寺で、1971年、山科区御陵大岩に移転している。
伏見区の淀に「唐人雁木旧趾」と刻まれた石標がある。雁木とは上陸のため、船着場につくられた石段である。ここで上陸後、鳥羽街道を北上して京都入りした。
通信使は江戸からの帰り、大仏殿(方広寺)の門前で、昼食の接待があったが、すんなりと通信使高官が席につくことはなかった。もめているのである。というのも、そもそも大仏殿は朝鮮に甚大な被害を与えた秀吉を祀っていることに問題があり、また大仏殿の周辺には通信使一行には見ることもつらい耳塚があったことも大きな要因となった。秀吉の朝鮮侵略の折、戦功を誇るため朝鮮人の耳や鼻をそぎ落とし、それを樽に塩漬けにして京都に送った。耳塚はそれを供養する塚である。
同志社大学の近くにある相国寺にも行った。通信使の遺墨が伝わるからである。第3代将軍・家光の頃、対馬藩の国書改ざん・偽造が発覚し、以後、それを防止する意味から、京都五山から輪番で外交僧が派遣された。彼らは以酊庵で、朝鮮関係の外交事務を管掌した。
京都市内から外れた亀岡市の金剛寺には、楼門に「金剛窟 朝鮮朴徳源(パクトクウォン)」の扁額が掲げられている。第11回目、1764(宝暦14)年の通信使の一員、朴徳源の書である。金剛寺が天龍寺派に属したことから、この扁額が伝わるといわれる。
朝鮮通信使が来日する度に、京都の街中に、朝鮮ブームが巻き起こったことが、ここからも知れる。
京都と対馬…行列輿に秘められた謎
京都・建仁寺の方丈・大雄苑に入り、対馬行列輿(こし)という大きな乗り物を見た。
ある部屋の一室に展示されている。一見、重そうな作りである。人が乗る箱にしては、丈夫な木組みである。担ぎ手が前後左右に4人必要となるが、4人では長くは担げない丈量である。恐らく8人、12人で担いだのであろう。
韓流歴史ドラマをみていると、両班(ヤンバン、貴族階級)や官僚が、輿に乗って移動する姿を度々見かける。箱形ではない、簡単な輿で、これだったら前後左右4人で足りると思う。王族が乗る輿は、これとは違い重量のある造りである。これを担ぐ人足は大変だったのではなかったかと思う。
江戸時代と朝鮮王朝を比較すると、輿の需要は朝鮮王朝の方が、比べものにならないぐらい多かったように思われる。
対馬行列輿に戻る。建仁寺になぜ、対馬の文字があるのか。それは建仁寺を含む京都五山の僧侶が対馬に派遣されていたからである。朝鮮外交の文書を管理するため、幕府が彼らを派遣した。3代将軍・家光の時代に、対馬藩の国書偽造・改ざん事件が発覚し、その再発を防ぐための措置だった。
これら僧侶のことを輪番僧といった。輪番僧に選ばれることは、大変名誉なこと。それは、対馬行列輿と名付けられた、重々しい輿からもうかがえる。威光を世間に伝えるシンボルのような輿である。彼らは、対馬・西山寺の以酊庵(いていあん)に入り、そこで任務を果たした。2年か3年交代で新旧入れ替わった。
それにしても、当時、京都から対馬までは遠い。大坂湾から博多までは瀬戸内海を通るから波も穏やかであろう。しかし、玄界灘に出ると、海は荒々しい。博多から対馬までの海路、難儀を極めたであろう。
江戸時代、対馬には流罪の人がいた。日蓮宗の日奥上人である。京都の寺の住職だが、不受布施派という戒律を守り、幕府の指示に従わなかったため、対馬に流された。
司馬遼太郎の『街道とゆく ~壱岐・対馬の道~』に紹介されている。
京都・建仁寺と対馬がつながっていたことを紹介したいがために、輿の話を書いた。
【ユネスコ世界の記憶】
・朝鮮国書 (使行年:1607、1617年) / 対馬藩作成 / 数量: 3点 / 所蔵:京都大学総合博物館 = 重要文化財
・朝鮮信使参着帰路行列 (1711年) / 対馬藩 (俵喜左衛門ほか) / 4点 / 高麗美術館 ・宗対馬守護行帰路行列図 (1711年) / 対馬藩(俵喜左衛門ほか) / 4点 / 高麗美術館 ・馬上才図(--) / 二代目鳥居清信 / 18世紀制作 / 1点 / 高麗美術館
・朝鮮通信使歓待図屏風 (1655年) / 狩野益信 / 17世紀 / 2点 / 泉涌寺 = 京都市指定文化財
・韓客詞章 (1711年) / 趙泰億ほか / 1711年 / 4点 / 相国寺慈照院 = 京都市指定文化財
【転載】『朝鮮ブーム 街道をゆく ~大坂から江戸、日光へ~』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)