(7) 岡崎
お宝・通信使揮毫の扁額発見
家康の生地は岡崎。1542(天文11)年、岡崎城内で竹千代(のちの家康)が誕生している。百科事典ウィキペディアによると「当時、櫓や門の屋根も茅葺で、当地は石の産地ながら石垣などもなく、ただ堀を掘ったその土をかきあげて、芝を植えただけの土塁がめぐっていた」という。
朝鮮通信使が縁で、岡崎の方とも面識がある。小田章恵さんという。やはり徳川の歴史に詳しく、その語りに感心する。彼女は、埋もれた貴重な史料を発見した方ある。
2018年秋、上関(山口県)で開催された朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流大会で会った折、彼女は読売新聞(5月26日付)の記事を手に、「地元の寺で通信使揮毫の扁額が見つかりました」というではないか。その新聞の切り抜きには、ご本人と住職、貫井正之氏の写真が掲載されている。私も知る貫井氏は、東海地方朝鮮通信使研究会の代表で、小田さんもその会員。
発見した扁額(縦65cm、横120cm)は古刹・龍山寺所蔵のもの。その表には右から左に「龜井院」と刻まれ、末尾には「朝鮮國雪月堂」の署名と「完山李三錫印」という印が板刻されている。龜井院とは同寺の塔頭の一つ。通信使の写字官、李三錫が書いたもの。雪月堂は彼の号であり、完山とは現在の全州(全羅北道)を表す。
扁額の裏には、次の文字が刻まれていた。
「天和二壬戌曆中秋朝鮮之 三使来朝之砌索之 富寺令寄者也/学頭 亮甚/真福寺大善院俊澄/彫之」
要するに、こうである。天和2年の1682年に朝鮮の三使が来た折に、求めて書いてもらった。当時の同寺住職は亮甚といい、揮毫してもらった書を板刻したのは俊澄だった、となる。
この発見は、住職から「朝鮮という文字のある扁額がある」という電話が小田さんに入ったことが発端となった。彼女が朝鮮通信使に詳しいことを知ってのこと。当然ながら、通信使の揮毫ではないかと思った小田さんは、天和2年に来日した第7次の通信使が江戸に向かう途中、岡崎にも宿泊したことが想起され、貫井代表にも確認を依頼した。
小田さんが描いた筋書きの通りの扁額で、一緒に同寺で確認した貫井代表は、文化財としても貴重なものと太鼓判を押している。通信使の扁額は愛知県内では広忠寺(岡崎市)、禅源寺(稲沢市)に続き3例目。約90年ぶりの発見であった。
天和2年の通信使の洪禹載が書いた『東槎録』には、岡崎について、こうある。
「(江戸への往路として)8月11日、夕方に岡崎七里の地点に至り、茶店で宿った。岡崎太守(藩主)水野右衛門大夫が各々果物一折りずつを呈上した」
「(帰路として)太平川の板橋を過ぎ岡崎に着いて泊まった。太守は江戸に行っており、其の家老鳥山牛之助が使臣各位に果物と煙草を呈上した」=以上、若松實氏の訳より
瀧山寺で揮毫した話は出てこない。予想するのは、通信使の客館(宿泊先)には、儒学者や文人、医者らが推しかけ、問答したり、漢詩文を交換したりしている。朝鮮の使節から書をねだる人もおり、対馬藩を通じて依頼している。こういう中に、瀧山寺の関係者がいたのか。
同寺が徳川家康のブレーンだった天海僧正と縁があったことから、貫井代表は「江戸で住職の亮甚が李三錫に接触し、揮毫を頼んだ可能性もある」(同紙より)とコメントしている。
貫井代表から「貴重な発見」「貴重な文化遺産」といわれ、小田さんは「やった」と心の中で叫んだことだろう。上関では、そのような素振りをしていなかったが、喜びはさぞかしと推測する。
【転載】『朝鮮ブーム 街道をゆく ~大坂から江戸、日光へ~』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)