小説とノンフィクションの虚構
小説は、政治論や哲学などの本格的な論ではなく、個人的あるいは私的なことを述べるということで、「大説」に対しての「小説」という定義がなされている。
その「小説」を現在のような文学作品の「小説」の概念に定着させたのが、明治時代の坪内逍遥の『小説神髄』などであるという指摘がある。
小説は、基本的にもともと事実ではないことを作家の恣意性で書くことが多いから、一部の例外を別として、空想や想像を交えた「虚構」であることがほとんど。
といっても、まったくのウソではなく、作者の血肉を作品の中に投入しているから、作者の内的な真実や事実を材料に書いているといった方がいいかもしれない。
それに対して、事実を書くという主義の小説、事実を書くことを謳った自然主義・私小説という分野がある。
とはいえ、自然主義でも私小説といっても、事実そのままを書いているわけではないことは、文芸評論家の研究などによってよく知られている。
人間の醜い内面性の暴露ということで、自然主義の代表的な作品となった田山花袋の「蒲団」にしても、田山自身をモデルにはしているが、事実をなぞりつつ、かなり事実とは違う面がある。
事実そのものを書いても、面白くとも何ともない日記になってしまうから、どうしても文学的・芸術的潤色を施されているといっていい。
極端な例を挙げれば、画家が写実的な絵画を書く場合、写真のように再現することはほとんどなく、そこに本当らしく見えるように演出がなされていることがそれにあたるだろう。
もちろん、例外的にクールベのような写真的なリアリズムの画家や写真をもとに見えるままに再現する現代のリアリズムの画家はいることはいるが、それにしても、事実そのままではなく、画家の目から見た再現であるという点では主観的なリアリズムで、純粋な客観的な表現ではない。
そうでなければ、その絵画から得られる感動は写真と同じで、書いた画家の心情、魂というものは感じないはずだが、実際は、そうした細部までリアルに描かれた絵画にも、不思議な情感、感動が与えられることが多い。
要するに、人間の手を通して描かれた絵画、文によってたどられた事実には、主観的なものが介在するということである。
その意味で、自然主義小説であっても、自然そのままではなく、事実そのものではないことを認識しなければならない。作品が力を持つのは、事実を脳内で再構成し、文学的な真実をそこに込められているからであるといっていいのである。
それは自分自身の記憶にしても、振り返ってみれば、よく理解できることである。事実と思っていた思い出や記憶が、家族や知人や友人と照らし合わせてみると、かなり大きく違っていることがある。
それは、事実と思い込んでいた、そのように事実を脳内で再構成して記憶していくからである。
その意味で、事実というのは、数学の数式のように明晰でも明確でもない不透明な部分を持っているといってよい。
それは事実を描くというノンフィクションにおいても、事情は変わらない面がある。
われわれは、ノンフィクションと謳ってある本を読むと、それがそのまま事実そのものであると考えてしまうが、100パーセントが事実というわけではないことは、証言や資料の不足分などは、作者の主観を交えて、推測して点と点を結び付けている。
可能性が高い推測ではあるけれど、事実そのものではない。
などと書くのも、ノンフィクションの作品の中には、事実を材料にして、事実というフィクションを再構成しているものがあるからである。ひとつひとつは、事実の断片だが、それをどう組み合わせ再構成するかは、作者の主観によって創造されるプロセスになってくる。
たとえば、民俗学の名作といわれる宮本常一の「土佐源氏」(『忘れられた日本人』所収)という作品も、聞き書きという名を借りながら、聞き手で作者である宮本常一の潤色が入っていることは、最近の研究でよく知られるようになった。
それを知って、私はそれではノンフィクションではなく創作ではないのか、と思ったのだが、よくよく考えれば、表現という世界には、事実そのものを並べただけのものは少なく、演出、作者の主観が反映していることが多いのである。
事実をそのまま映像にする写真にしても、新聞やテレビに映るものは、事実の中から取捨選択し、あるいは演出して構成するという面(要するにやらせの部分)がある。
よく知られた例としては、受験生が雪に滑った写真を掲載した新聞がかつてあったが、実際にはすべったのは受験生ではなく、報道関係者だったという笑えない話がある。
写真は見ただけで見る者にわからせなければならないので、絵柄がわかりやすい構図がそこになければ、自分たちでそれを再現(演出)して、意図を読者や視聴者に伝えようとするのである。
そのこと自体は、表現の一手段であり、ある面では仕方がないことであるが、問題はそれが一人歩きして事実そのものとしてまかり通ってしまうことである。
一種の神話化、イデオロギー化であり、それが事実として引用され利用されていくと、事実から大きく離れたものになってしまうことである。
このことでは、私自身経験があるので、今でも思い出すことがある。
かつて、キリスト教関係の修道院を取材していた時、そこの責任者の神父さんに話をうかがったときのことだった。
話がはずみ、予定時間をオーバーしてかなり時間がたち、あたりが暗くなってしまった。それで、最終のバスに間に合うかどうかになって、あわてて挨拶をして別れを告げたが、神父さんは忙しい身にもかかわらず、バス停まで見送ってくださった。
無事にバスの席に乗って、振り返ると、神父さんの姿があった。
ここまでは事実。
のちに、このインタビュー記事を記事にしたとき、この神父さんの律儀で親切な人柄を表すために、私はこのバス停の場面を書きたいと思って、神父さんがバスが発車するまで手を振って見送ってくださったと書いた。
事実は違う。
神父さんは、バスの出発とともにすぐに事務室へ戻っていった。
そう書けば事実そのものだったのだが、それでは絵にはならないというか、美談にはならないので、神父さんはバスが消えるまでじっとして見送ってくださった、と書き換えたのである。
これを書いたことで、私はかなり後まで悩んだ。
推測すれば、神父さんは何も冷たいビジネスライクな態度を取ったのではなく、次の人のために時間を必要としたために、急いだということなのだろう。
事実を書くといいながら、「虚構」を交えてしまったということで、私は事実とは何かと考えるようになったのである。
(フリーライター・福嶋由紀夫)