『帰らざる数限りなき魂に
「タヒャンサリ」や「鳳仙花」のうた』
先日、秋色濃い播磨路へ行きました。植民地時代に相生市で心ならずもあの世へ旅立ち無縁仏となった人々の慰霊追悼集会に参加するためでした。
堂が建立されていて、碑が参会者の心をとらえていました。相生市長の出席は私たちの心を和ませてくれます。日本と在日(韓国・朝鮮)が相互に理解を深め、文化・社会の全ての分野でよい影響を与え合う仲立ちの役割をしているのだとうれしくなりました。
堂の中に納められている骨壷の無縁仏としての被葬者は、朝鮮半島のどこの人なのでしょうか。故郷を追われ、遠い日本にどの様にして渡ってきたのか、今は知る由もありませんが、故郷の山河を恋しく思い続けていたに違いありません。海を渡ってきた無縁仏の被葬者はこの国で、この相生で骨になりました。実はこの私も瀬戸内の小さな市、相生市で1943年小学四年生(解放の二年前)から1960年まで当地で暮らして居りました。63年前の過ぎた日を振り返る事は出来ても、その折の感情を今に表現することはとてもむずかしいのですが、私は語らねばなりません。太平洋戦争の末期になると朝鮮人強制連行が始まり、私の住む町の企業(造船所)にも割り当てがあって、多くの連行された男たちがやって来ました。夜になると彼らの宿舎の窓から、よく「他郷(タヒャン)暮らし」の歌が流れてきました。小学校からの帰り道、道路作りをしている彼らの姿を見かけました。日本軍兵士から木刀で頭を殴られ土手から転び落ちるのを何度も見ました。
「他郷暮らし(タヒャンサリ)幾年ぞ、指折り数えれば故郷をいで十余年、青春は老いぬ」
歌詞が短いせいか、すぐに覚えることが出来ました。自然に涙があふれ落ちたものです。「タヒャンサリ」とはそんな曲でした。如何なる経よりも無縁仏となった被葬者に捧ぐるに最良のふさわしい曲だと思いました。
この日、歌われたのは「拉致被害者の会」がよくテレビなどで歌っている「ウサギおいしかの山・・・・」でした。この時点で私は複雑な思いを抱かざるを得ませんでした。
被葬者に捧ぐる歌曲は、「アリラン」や「故郷の春」「鳳仙花」であり「タヒャンサリ」ではなかったかと問いかけたくなりました。海峡を越えてきた被葬者が知るはずも無い「ふるさと」だったとは・・・。私は堂の裏に廻り、骨壷の一躰づつに「タヒャンサリ」と「アリラン」を経のかわりに心より捧げて、第二の故郷とも言うべき相生の町を後にしました。
(記:曺小煥 )
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