400年前の渡来人の子孫・沈寿官さん
今年の6月に亡くなった薩摩焼の陶芸家の第14代沈寿官さんに会って話を聞いたことがある。
1992年ごろの話である。
当時は、成田・羽田からの航空ルートと下関や博多からの船のルートがあり、日本と韓国の陶芸家のインタビューのために、海路を取り、福岡県博多から就航してそれほど時間がたっていないジェットフォイルで、釜山まで向かった。
実は、朝鮮出兵の歴史を陶芸の渡来から考えてみようということで、陶芸のやってきたルートを博多、対馬、釜山、聞慶などを逆にたどりながらソウルまで行くという計画で出発した。
途中、ルート的には完全なものではなかったが、おおよそ焼き物戦争といわれた文禄・慶長の役の古戦場などをたどりながら、途中、日本人武将の沙也加(金忠善)の子孫が住んでいる村などを訪ねたりもした。
韓国人の陶芸家も、非常に個性豊かな人物が多くて、饒舌で、自分の陶芸の世界を語っていた。
ちなみに、今ではよく覚えていないが、10人ぐらいの陶芸家に会った記憶がある。中には、日本の人間国宝や文化財にあたるような陶芸家もいたし、日本でも知られた有名な陶芸家もいた。
この有名な陶芸家には、アポイントをとってからすぐに会うということが無礼であると怒られた覚えがある。自分のように有名な人物に会うには、事前に予約してからようやく会えるぐらいなのだ、と。
陶芸というと、日本人が愛好家が多いので、日本人向けに工房では定価も日本円とウォンが併記されていた。
最初は、韓国人の陶芸家だけのインタビュー訪問記で済まそうと思ったが、それだけではバランスが悪いので、日本人の陶芸家も加えようということで、帰国してから急遽、薩摩焼の沈寿官さんなどを訪ねることにした(沈寿官さんが日本人の中に入れていいかどうかは微妙なところだが)。
よく知られているように、この14代の沈寿官さんは、作家の司馬遼太郎の『故郷忘じがたく候』の主人公で、豊臣秀吉の朝鮮出兵で故郷の地・南原から拉致されて、船が漂流し、鹿児島県の日置市東市来(ひがしいちき)町美山(みやま)に最終的に定住した。
そして、生活するために、故郷でやっていたように土を探しながら、そこで焼き物を始めた。
それが薩摩藩の名物になる薩摩焼(献上品用の白薩摩と庶民用の黒薩摩)に結晶するのだが、幕末明治を迎えていったん、その伝統が途絶えたというようなことが書かれていたことを覚えている。
特に、14代沈寿官が窯を継いだ時には、13代の急逝もあって、その伝承された技術や土の再継承が大変だったこと、その土を探すために苦労したことなどが、司馬作品には、描かれていた。
白薩摩は、大名や将軍家への贈答品として使われたが、白にこだわったのは、薩摩藩が李氏朝鮮王朝の白磁を再現したいというものがあったからだ。
それほど李氏朝鮮王朝が生み出した白磁は、日本人武将にとっては喉から手が出るほどあこがれの作品だった。
当時の日本は、水を通さない磁器はまだなくて、水が漏れる陶器が主流だったこともある。その後、やはり朝鮮半島から渡来した李参平によって、有田に磁土が発見され、有田焼につながるのだが、薩摩藩でも、同じような磁土がないかを探させたのである。
ようやく磁器になる土が発見され、それがこの初代の沈寿官家を中心とした渡来人のグループが薩摩藩の庇護を受けて、以来、400年あまりの歳月を経て来たという。
400年という歳月が過ぎてみれば、もはや日本人といってもいいのだろうが、沈寿官さんの住む村は、渡来してきた人々が住み、長い間、ハングルで話していたというほど、故国の伝統文化・風俗を遵守していた。
それは、薩摩藩がおそらく陶芸の技法を他藩に流出することを恐れたことなどの理由があっただろうが、これは薩摩藩だけのもので、佐賀藩でも李参平を中心とした有田焼を守ろうとしたが、いつしかその家系は日本人の中にまぎれていって散逸するようにわからなくなっていった。
その意味では、沈寿官さんの立場は、まさに渡来人という位置づけになるが、古代日本にやってきた渡来人がいつしか故国の伝統文化を離れていったのとは対照的といっていいかもしれない。
沈寿官さんは、そのような立場などもあって、日本初の韓国名誉総領事も務めている、文字通りに日韓・韓日の架け橋となろうとした人物でもある。
その窯を構えた場所は、あまり交通が便利なところではなかったが、タクシーの窓から見える風景は、山また山の中に入っていくような寂しい印象を与えた。
迎えてくれた沈寿官さんは、まさに司馬遼太郎の作品そのままの印象で、気さくで、饒舌で、しかもせわしないほど動き回る。
印象的だったのは、写真撮影のときと、人間の等身大ほどの薩摩焼の華麗な大瓶(花瓶)について尋ねたときのこと。
写真撮影に関しては、「あんたの書いた文章は読んでないからようわからんが、写真撮影がへたなのは、ようわかる。腰が落ち着いてない」というもの。
確かに、今でもそうだが、写真の撮影には自信がない。それはどのような写真を撮ったらいいのか、という具体的なイメージをもっていなくてそのまま直感的にシャッターを押し続けたからだろう。
土を成型しているポーズなどもしてもらったのだが、それもただ漠然とした指示だったので、沈寿官さんも戸惑っていたようだった。
また、薩摩焼の巨大な花瓶に驚いたので、どう作るのかを聞いたとき、沈寿官さんは、それには直接答えずに、これを作るのは、ふつうのことじゃできん、それこそ、魂を傾けるような情熱と信念が必要だと力説した。
「もうわしでも、いまはこんな巨大作品はできんなあ。それこそ、あんたと私が心の底まで友達になったとき、その友情のために作るというならば、かろうじて作れるかもしれんがなあ」
そのしみじみした言葉を思い出す。土と格闘し、火の炎の舞を見つめて来た人ならではの感慨なのだろう。
沈寿官さんは、韓国に招かれ、ソウル大学で講演したとき、次のように、日韓・韓日関係について述べた。
「言うことはよくても言いすぎとなると、そのときの心情はすでに後ろ向きである」「あなたがたが36年をいうなら、私は370年をいわねばならない」
370年という歳月を渡来人の子孫として生きて来た人の言葉として示唆に富むものがあると言わざるを得ない。
(フリーライター・福嶋由紀夫)