一世を風靡した『ノストラダムスの大予言』の著者、五島勉氏が6月に亡くなっていたことが、このほど明らかにされた。
いつのまにか、過去の人になってしまった感があるが、死去のことを聞いて、予言のことで頭を悩ませていた時代を生々しく思い出した。
そうか、1999年から既に20年が経ったのか、時間が経つのも速いが、それでも忘れられない記憶だった。
1999年という特別な年に何かが起こるのではないか、という思いを固唾を飲んでカウントダウンの瞬間を刻一刻を待っていた時を思い出すと、不思議な気持ちになってくる。
果たして、というべきなのか、それ見ろというべきなのか、1999年の7月には何も、人類が破滅するような出来事は起こらなかった。
その後、ノストラダムスの予言のブームは終焉を迎えたといっていいほど、静かになってしまった。
ノストラダムスの予言は当たらなかった。
ということは、簡単だろうが、そもそもノストラダムスの予言は人類の破滅を予言したものだったのか、という疑問はさておかれてしまったことは、予言研究に一時身を置いた者としてはいささか寂しい思いがする。
基本的に、ノストラダムスの予言書である『諸世紀』は、1999年で終わっていない。その後の人類の行く末についての予言が綴られていることは一部の人にとっては割合知られていた事実である。
だが、そうした事実よりも、人類が破滅するというセンセーショナルな事実の方が俗受けしやすかったのは間違いない。
オカルトミステリーのような扱いをされ、「1999年」には一体何が起こるのか、戦争か、宇宙人の侵略か、それとも環境汚染のために地球環境の悪化による死滅か、それとも大地震や彗星や小惑星の衝突による爆発的な天災か、いずれも、まったく根拠のないことではなく、もっともらしい根拠や理由があったことで、いかにもありそうな事態だったために、多くの人々が影響を受けた。
絶望したために、結婚を断念したり、未来の自分を想像できないので、まともな就職をしなかったり、社会的な混乱を招いたことは間違いない。
特に、この大予言ブームによって、青少年の自己形成に大きな影響、不安や鬱病や苦悩を与えたのである。
一時代の空気、精神的風景をノストラダムスの大予言が支配していたことを考えれば、五島勉氏の死を通して時代思想というものを、予言というものをもう一度原点に立ち返って考えるのも、決して無駄なことではないだろう。
五島勉氏は、生前、自分の予言が巻き起こした社会混乱に対して、弁解するというか、自分の思いを吐露した発言がある。
2010年、光文社発行の写真週刊誌「FLASH(フラッシュ)」のインタビュー記事で、次のように述べている。
「その点については、申し訳ない気持ちは大いにあります。ただし、私があの本で一番書きたかったこと、それは最終章の『残された望み』という部分です。これは警告なんですね。ノストラダムスの予言とは、聖書に書かれている預言を具体的に書いたものです。こういった大きなことが起きるから気をつけなさいと。
だから私は最終章で警告し、備えさえできていれば大丈夫だと、しっかり書いているんです。
しかしマスコミはその部分は取り上げてくれない。1999年7月に人類が滅亡すると、そこしか言わないんですね。私としては、とにかく人類が助かってほしい、みんな穏やかに暮らしていければいいと、そう思って書いたのです」
確かに、五島勉氏の言うように、氏の著書には、「1999年」の人類の破滅とともに、それを回避するかもしれない存在として、「別な物が現れれば」という希望の予言の部分も示されてはいたが、それはあまり注目されなかった。
ただ、五島勉氏は、その希望の存在を「日本」として提示して、次々に続編を世に問うたことは記憶に新しい。
時代的にも、日本の高度成長とともに、経済的豊かさ、世界でも有数な経済大国としてプレゼンスを示していた日本の状況が、その説を裏打ちするような状況でもあったことは確かである。
日本式経営や人事など、日本の技術などが注目を浴びていた時期とも重なり、もしかすると、日本が世界の破滅を救う国になるのではないか、という五島勉氏の解説は日本人とっては耳に快い響きがあった。
だが、「1999年」という節目の年を通り過ぎてみると、このような解説も、現在の状況を振り返ると、どうなのだろうか、という思いを禁じ得ないのである。
ノストラダムス大予言というのは、果たして「破滅」を予言したものなのか、ということを改めて考えてみる必要がある。
先に、述べたように、ノストラダムス予言は、天災や自己や災害、事件などを予言したが(それも暗号であるために特定するのが難しい。ただ、ノストラダムスの予言が有名なのは、当時の出来事を予言した一部のものが事実と認定されたからである)、人類全体が破滅するとは予言していない。
「1999年の7の月/空から恐怖の大王が降ってくるだろう/アンゴルモワの大王をよみがえらせるために/その前後、マルスは幸福の名のもとに支配するだろう」(五島勉氏訳)
虚心に読んでみても、この予言詩の軸は「人類破滅」というよりは、「アンゴルモワの大王をよみがえらせる」という部分にあることがわかる。
要するに、科学者ではなかったキリスト教の信徒だったノストラダムスの予言は、キリスト教的世界観、聖書を中心とした黙示録的な預言と深いかかわりがあることは間違いないと言っていい。
聖書預言と結び付けて考えなければ、その真意を解釈することはできないのである。
その意味では、暗号的に書かれた予言詩は、このキリスト教の未来、黙示録的終末の世界に訪れるであろう、再臨のイエスのことと深くかかわった予言とみることができるのである。
とはいえ、これ以上踏み込むことは、一介のフリーライターとしては手に余る限界もあり、また紙数の関係もあるので、この辺で終わりとしたい。
ただ、日本において、ノストラダムス予言というものが急激に一般に認知されたのも、この五島勉氏の著作の力ということを考えれば、そこに時代的な要請があったのであり、偶然に流行が起こったというわけではないことは間違いない。
(フリーライター・福嶋由紀夫)