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ノーベル文学賞 小説と詩のことを考える

 2020年の今年のノーベル文学賞の発表がなされ、最有力というか、この10年いつも候補者として挙げられていた日本人作家の村上春樹氏は、またもや残念ながら落選の憂き目を見た。 

 受賞したのは、アメリカの詩人であるルイーズ・グリュックさん(77)。 

 日本では、翻訳も少なくて知られていないが、アメリカでは、ピュリッツァー賞を受賞するなど、高い評価を受けている詩人だ。 

 村上春樹氏が、毎年、有力候補とされながらも、受賞を逃しているのは、ノーベル受賞者は同じ地域では受賞できないという解説(日本長崎県出身の日系イギリス人作家・カズオ・イシグロが選出されたことで同じアジア地域の村上氏に不利になった)などもあるが、それよりも、ノーベル文学賞というか、ノーベル賞自体が文学的な価値よりも政治的な評価が強く働くこともあるだろう。 

 2016年に受賞したアメリカの歌手、ボブ・ディランの例もそうだが、世界的な文豪の『戦争と平和』の著者、レフ・トルストイも候補(1901年に候補)に挙げられながら受賞していないことをみれば、文学賞選定に政治的な判断や評価が含まれているのは明らかである。 

 その意味では、村上春樹氏の文学が、世界的に読まれ、高評価を得ているとしても、それは文学的なものであって、その作品が政治的な働きを及ぼした(村上氏の作品は日本という国の民族文学としてのアイデンティティも、政治的なメッセージもほとんどないといっていい)という側面が欠けていることは間違いない。 

 村上文学は、よく言えばコスモポリタンであり、悪く言えば無国籍文学であるといっていいのではないか。 

 それ自体は、世界の人々に受け入れられる要素ではあるが、逆に言えば、世界の民主化や戦争反対などの政治的行為とは無関係で無力でもある。 

 やや戯画化していえば、村上文学の本を手にして、独裁主義と戦う政治運動が起こったり、民族自決の旗印や飢餓のアフリカなどを人道主義的に救う行動を促すか、といえばそれは可能性が低いといえるだろう。 

 むろん、文学は政治運動とは無関係といっていいけれど、その文学を送り出す作家や詩人個人は、それぞれの生誕地の国や民族とつながっていて本質的には政治と無関係ではありえない。 

 作品に精魂を傾けるということは、その作家や詩人の置かれた状況、政治的な立場と無関係に存在することは、作品の生命に魂の息吹を与えることができない。 

 その意味で、文学者はたとえ作品に表面的な政治マニフェストを表明しなくても、その優れた作品の本質にはその作者の血が流れ、それが読者の心に様々な反響と影響を与えているのである。 

 それが表面的な政治行動とならなくても、自由を求める精神的な動機に働きかけ、人生を変える働きとなる。 

 あくまでも、ノーベル文学賞は、「平和」という政治マニフェストに作品が関わっているかどうか、という点に価値判断が働いているとみていいだろう。 

 その点では、村上文学が文学外の評価、平和運動やそれにたぐいする政治的な行動を起こして、それを文学賞の選定委員に認められなければ、村上氏自身が政治的発言や行動を忌避している面があることもあって、今後も受賞は難しいと予想する。 

 それはさておき、今回の受賞の背景を報じた読売新聞の10月14日付の記事「文学賞『欧米』『詩』に比重」という記事を読んで感じることがあった。 

 記事の趣旨は、日本では詩人の地位が高くなく、小説の方に重きが置かれているが、欧米では小説よりも詩の地位が高いということを紹介して、今回の受賞もそのような詩への高い評価が背景があるという解説記事である。 

 もちろん、文学を世界に紹介するための翻訳の壁や限界なども挙げているので、要を得た解説といっていい。 

 確かにその通りなのだが、なぜ西欧では詩の地位が高く、小説の評価が相対的に低いのか、という本質的な考察まで至っていないのが残念である。 

 その背景には、詩と小説の本質的な違い、というか、詩が個人の趣味や創造ではなく、時代を動かす民族の精神の淵源に、そのスピリチュアルな命を賦与されているという点がある。 

 詩は、個人の営為だけで成立するものではないことは明らかである。 

 詩がホメロスのような叙事詩、神にささげる賛美や感謝などをルーツとしているということを、それから枝葉を伸ばして発展していったのが、小説だったということを改めて考えなければならない。 

 詩は、神に祈りをささげる巫女のトランス状態の託宣や祝詞のような性質が根底にあるといっていい。 

 だからこそ、詩にはよく使われる表現、ミューズの女神からインスピレーションが必要なのであり、個人の言葉と神からのインスピレーションの合作によって成立する面がある。 

 小説は、もちろん、インスピレーションもあるけれど、作者個人の創造性が主な原動力となっている。 

 その意味では、詩は宗教的であり、小説はルネサンス以降の人間主義的な精神が根底にある。 

 キリスト教的な世界観からギリシアやローマ文化、その人間的な個人主義による創作活動の比重が大きいといっていい。 

 ちょっとわかりにくいかもしれない例だが、詩は神との共同制作、小説は神をあまり介在させない作家自身が神の立場で作品世界を構築するということだろう。 

 詩と小説は、同じ母体から出発したが、そのように分岐していった面があることを知らなければならない。 

 そのことを考えれば、なぜ日本では詩の地位が低く、西欧では小説よりも高い評価を受けるのか、という背景がおのずから理解できる。 

 日本の詩は、西欧文学からの影響が大きいが、それは日本の伝統文化である詩歌の世界とはつながらず独自に発展してきた。 

 そして、その詩の息吹をもった短歌や俳句も、明治以降の進化論的な文学観、物事を客観的に表現するというリアリズムにその生命を断たれていった。 

 短歌の淵源である万葉集には、神との交流、死者の鎮魂や神への祈り(恋人や連れ合いの旅の安全と祈ること)、恋愛成就への祈りなど、そこには神との共同作業が横溢していたのである。 

 そのことを考えれば、文学の再生は、日本における精神革命、言ってみれば、宗教的精神のリバイバルがキーワードになっていると言ってもいいのではないか。 

 詩の危機の時代、それは本質的に日本の危機でもあるのだ。 

 (フリーライター・福嶋由紀夫)  

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