黄七福自叙伝05
「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」
第1章 祖国解放までのこと
乙巳保護条約
日露戦争終結後の一九〇五年(明治三十八)十一月十七日に第二次日韓協約として締結されたもので、韓国保護条約ともいわれる。
日本側は特命全権公使林権助、韓国側は外部大臣朴斉純が調印した。
韓国に対する優越権をロシアから承認させた日本は、高宗が第一次日韓協約への不満を表す密使を他国へ送っていたことを嫌悪し、韓国の外交権を接収するために結んだものである。
その第二条は、日本国政府は韓国が他国と結んでいる条約を実行する立場となるため、韓国は今後日本の仲介無しに他国と条約や約束を交わしてはならない、という規定だった。
なお、日露戦争中の一九〇四年八月二十三日に第一次日韓協約を締結し、日本政府の推薦者を韓国政府の財政顧問、外交顧問に任命しなければならないようにした。調印者は特命全権公使林権助と外部大臣伊致昊であった。
第三次日韓協約は、一九〇七年(明治四十)七月二十四日に締結され、高級官吏の任免権を韓国統監が掌握し、高級官吏に任命されるのは日本人であることなどが定められ、韓国の内政が完全に日本の管轄下に置かれた。
また、非公開の取り決めで、韓国軍の解散、司法権と警察権の委任が定められた。
ハーグ密使事件
乙巳保護条約によって、外交権を接収された韓国では、李容泰、沈相薫、金嘉沈ら抗日派はイギリス人ベッセルやアメリカ人ハルバートらと図って海外同志と連絡を取り、一九〇七年六月二十五日、オランダのハーグで開催されていた第二回ハーグ万国平和会議に高宗の密使(李儁ら三人)を派遣し、列強諸国に乙己保護条約(第二次日韓協約)の無効を訴えようとした。
しかし、日本大使・小村寿太郎らの妨害工作によって、列強諸国は、韓国の外交権が日本にある事を理由に拒絶。他に露・米政府にも接触したがこちらも拒絶された。李儁は抗議のために自決して果てた。
この密使事件により、伊藤博文は、高宗に退位を迫り、純宗を即位させた。監禁されていた高宗が翌年一月に突然亡くなり、日本による毒殺説が広まった。
ところで、オランダの韓人社会では、社団法人李儁アカデミーが組織され、李儁義士を顕彰している。光復五十周年の一九九五年八月にはデンハーグに李儁博物館が開設された。