黄七福自叙伝26
「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」
第2章 祖国が解放されたこと
朝連東阿支部のこと
祖国解放の喜びを肌で感じつつ、しばらくすると、朝鮮人連盟(朝連)の東阿支部(東住吉、阿倍野)から誘いにきた。
きたのは、全羅南道珍島の出身で、李三來という人と、慶尚道浦項の出身で、卞福澤いう人で、私よりずっと年上だった。
李三來は後に北送という形で国に帰ったが、
「どういう思想か」と聞くと、
「進歩的な民主主義だ」と答えた。
それで、民主主義ならいいだろうという気持で、私も加入した。後で知ったことだが、民主主義を一番よく使うのは共産主義者だった。
支部事務所は鉄筋コンクリートの二階建で、生野本通り商店街の出口の源ヶ橋交差点の近くにあった。
朝連の集まりに出ると、解放されたという喜びを共に分かち合うことができたし、いろいろな同胞に会えるということがなによりも嬉しかった。同胞愛にかこまれ、民族の心に大きく火がついた。
一九四六年(昭和二十一)三月六日には朝連傘下の青年組織として在日本朝鮮民主青年同盟(民青)が結成された。これは中央組織で、私は、民青大阪本部結成のときも参加した。
委員長に選出された尹相哲らと同期ということになった。尹相哲は後に朝総連中央本部の幹部になった。
そのうち、祖国が南北に分断され、北は共産主義、南は資本主義となった。次第に、朝連が共産主義思想による武力革命の戦略で動いていることを知ることになるが、民青東阿支部の委員長にも祭りあげられた私は、そうした状態をまだ知らなかった。
今里のどこかが会場だったが、そこで問題が起こった。吹田の金とかなんとかいう人だった。
三十歳から四十歳ぐらいの人で、私は二十代だったが、その人が、
「テグキ(太極旗)を掲げなければならないのに、赤い星の旗はどういうことか」
と騒ぎ出した。民青の旗というのは、赤い線を五本か、渦巻きに延びていて、真ん中に赤い星があった。
そのころから左右に色分けされるような空気が漂い、脱退していく人もかなりいた。
朝連の左傾化のこと
朝連の大きな集会とか野外デモとかには、必ず日本共産党が激励にきた。他の党は誰もこないのに、いつも日本共産党が激励にくるという、それだけが不思議だった。
大阪は主に川上貫一という人で、雄弁家だった。川上貫一というのは、日本共産党中央委員で、大阪選出の衆議院議員だった。
朝連内部ではいつも、
「なんで我々の組織には、共産党しかこないのか」
という質問が飛び出した。
すると幹部は、
「日本の国会で、朝鮮人のために質問するのは日本共産党しかおらん」
と答えるのが常だった。
そういう答えに接すると、黙らざるを得なかった。質問した人らは、次第に姿を見せなくなった。
民青は、日本共産党の幹部を警護することも重要な任務だった。何かの集会があると、民青の青年らが先頭を歩き、その後に、日共の青年党員が続いた。
戦時中は玉避けとして最前線に動員された朝鮮人軍属らと同様に、民青は突撃隊の役目を果たしていた。
釈放された金天海の歓迎大会が、大阪中之島の中央公会堂で開かれたとき、私は、はじめて金天海の顔を見た。金天海と一緒に出獄した徳田球一や志賀義雄ら有名な日共幹部もいた。
戦時中、多くの朝鮮人が連行され、土建会社のタコ部屋に押し込められた。朝早くから酷使され、食事は満足に与えられず、といって、二重三重に監視が張り巡らされ、逃げようにも逃げられず、約束の給料は支払われずと、まさに生き地獄の世界だった。
そしたタコ部屋の人夫を救ったのが金天海だった。タコ部屋の待遇改善はもちろん、賃金不払いの不当性を日本人親方と直談判して解決するという勇気のある行動が、朝鮮人親方からも畏敬を集めたのだった。
だから、金天海を知らない人はいないといってもいいほどだった。
私も中央公会堂での歓迎会に参加して演説を聞いた。その演説を聞いてびっくりした。
徳田球一は、
「天皇は国民の血を吸っている。財産をみんな分けてやる」
と天皇陛下をぼろくそにこき下ろした。
徳田球一は、
「三菱、三井、天皇も全部解散だ。天皇は国民の血を吸うやつだ。解散して、財産を全部わけてやる」
と演説した。
昨日まで天皇といったら神様だったから、私は耳を疑うほどにびっくりした。
それにしても、「天皇は神聖にしておかすべからず」という神様の存在であった天皇陛下が、ミソもクソも一緒になったようにこき下ろされたのにはまさに驚天動地だった。
野坂参三は、
「日本の海も、朝鮮の海につながっているし、釜山港につながっている」
と力説した。
これは、朝鮮もやがて共産主義になるという意味で、韓半島も共産化されるとアジっていたのだ。